へて、裁判になつても敗けぬ様にして置いて、突然売飛ばして了はうとか、平常《ふだん》心から敬つてゐる支部長を殺さうとかいふ、全然《まるで》理由《わけ》の無い反抗心を抱いたものだが、それも独寝の床に人間並《ひとなみ》の出来心を起した時だけの話、夜が明けると何時しか忘れた。
兎角する間に今年の春になると、支部長は、同じ会堂で育て上げた、松太郎初め六人の青年を大和の本部に送つた。其処で三ヶ月修行して、「教師」の資格を得て帰ると、今度は、県下に各々区域を定《き》めて、それぞれ布教に派遣されたのだ。
さらでだに元気の無い、色沢《いろつや》の悪い顔を、土埃《ほこり》と汗に汚なくして、小い竹行李|二箇《ふたつ》を前後《まへうしろ》に肩に掛け、紺絣《こんがすり》の単衣《ひとへ》の裾を高々と端折り、重い物でも曳擦る様な足調《あしどり》で、松太郎が初めて南の方からこの村に入つたのは、雲一つ無い暑熱《あつさ》盛りの、恰度八月の十日、赤い赤い日が徐々《そろそろ》西の山に辷りかけた頃であつた。松太郎は、二十四といふ齢こそ人並に喰つてはゐるが、生来《うまれつき》の気弱者、経験《おぼえ》のない一人旅に今朝から七里
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