《こゆる》ぎもせぬ。右の頬片《ほつぺた》を板敷にベタリと付けて、其顔を炉に向けた。幽《かす》かな火光《あかり》が怖しくもチラチラとそれを照らした。
 別の寒さが松太郎の体中に伝はつた。見よ、お由の顔! 歯を喰絞つて、眼を堅く閉ぢて、ピリピリと眼尻の筋肉《にく》が痙攣《ひきつ》けてゐる。髪は乱れたまま、衣服《きもの》も披《はだ》かつたまま……。
 氷の様な恐怖が、松太郎の胸に斧の如く打込んだ。渠は今、生れて初めて、何の虚飾なき人生の醜悪《みにくさ》に面相接した。酒に荒んだ、生殖作用を失つた、四十女の浅猿《あさま》しさ!
 松太郎はお由の病苦を知らぬ。
『ウ、ウ、ウ。』
とお由は唸つた。眼が開き相だ。松太郎は何と思つたか、再《また》ゴロリと横になつて、眼を瞑《つぶ》つて、呼吸《いき》を殺した。
 お由は二三度唸つて、立上つた気勢《けはひ》。下腹が疼《しび》れて、便気の塞逼《そくはく》に堪へぬのだ。眤《じつ》と松太郎の寝姿を見乍ら、大儀相に枕頭《まくら》を廻つて、下駄を穿いたが、その寝姿の哀れに小さく見すぼらしいのがお由の心に憐愍《あはれみ》の情《こころ》を起させた。俺が居なくなつたら奈何《どう》して飯を食ふだらう? と思ふと、何がなしに理由のない憤怒《いかり》が心を突く。
『ええ此|嘘吐者《うそつき》、天理も糞も……』
 これだけを、お由は苦し気に怒鳴つた。そして裏口から出て行つた。
 渠は、ガバと跳び起きた。そして後をも見ずに次の間に駆け込んで、布団を引出すより早く、其中に潜《もぐ》り込んだ。
 間もなくお由は帰つて来た。眠つてゐた筈の松太郎が其処に見えない。両手を腹に支《か》つて、顔を強く顰《しか》めて、お由は棒の様に突立つたが、出掛《でがけ》に言つた事を松太郎に聞かれたと思ふと、言ふ許りなき怒気が肉体の苦痛《くるしみ》と共に発した。
『畜生奴!』と先づ胴間声が突走つた。『畜生奴! 狐! 嘘吐者《うそつき》! 天理坊主! よく聴け、コレア、俺ア赤痢に取付かれたぞ。畜生奴! 嘘吐者! 畜生奴! ウン……』
 ドタリとお由が倒《のめ》つた音。
 寝床の中の松太郎は、手足を動かすことを忘れでもした様に、ビクとも動かぬ。あらゆる手頼《たより》の綱が一度に切れて了つた様で、暗い暗い、深い深い、底の知れぬ穴の中へ、独ぼつちの魂が石塊《いしころ》の如く落ちてゆく、落ちてゆく。そして、堅く瞑《つぶ》つた両眼からは、涙が滝の如く溢れた。滝の如くとは這※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《こんな》時に形容する言葉だらう。抑へても溢れる。抑へようともせぬ。噛りついた布団の裏も、枕も、濡れる、濡れる、濡れる。…………
[#地から1字上げ](明治四十一年十二月四日脱稿)
[#地から1字上げ]〔生前未発表・明治四十一年十一月〜十二月稿〕



底本:「石川啄木全集 第三巻 小説」筑摩書房
   1978(昭和53)年10月25日初版第1刷発行
   1993(平成5年)年5月20日初版第7刷発行
底本の親本:「スバル 創刊号」
   1909(明治42)年1月1日発行
初出:「スバル 創刊号」
   1909(明治42)年1月1日発行
入力:Nana ohbe
校正:川山隆
2008年10月18日作成
青空文庫ファイル:
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