お申婆も口を添へる。
『何有《なあに》!』とお由は又言つた。そして、先刻《さつき》から三度目の同じ弁疏《いひわけ》を、同じ様な詰らな相な口調で付加へた、『晩方に庭の台木《どぎ》さ打倒《ぶんのめ》つて撲《ぶ》つたつけア、腰ア痛くてせえ。』
『少し揉んで遣べえが』とお申《さる》。
『何有《なあに》!』
『ワツハハ。』懶《けだる》い笑方をして、松太郎は顔を上げた。
『ハツハハ。酔へエばアア寝たくなアるウ、(と唄ひさして、)寝れば、それから何だつけ? ※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》、何だつけ? ハツハハ。あしきを攘《はら》うて救けたまへだ。ハツハハ。』と、再《また》グラリとする。
『先生様ア酔つたなツす。』と、……皺くちやの一人が隣へ囁いた。
『真箇《ほんと》にせえ。帰《けえ》るべえが?』と、その又隣りのお申婆《おさるばあ》へ。
『まだ可《え》がべえどら。』と、お由が呟く様に口を入れた。
『こら、家《うち》の嬶、お前は何故、今夜は酒を飲まないのだ。』と松太郎は再《また》顔を上げた。舌もよくは廻らぬ。
『フム。』
『ハツハハ。さ、私《わし》が踊ろか。否《いいや》、酔つた、すつかり酔つた。ハハ。神がこの世へ現はれて、か。ハツハハ。』と、坐つた儘で妙な手付。
 ドヤドヤと四五人の跫音が戸外《そと》に近いて来る。顔のしやくつたのが逸早く聞耳を立てた。
『また隔離所さ誰か遣られるな。』
『誰だべえ?』
『お常ツ子だべえな。』と、お申婆が声を潜めた。『先刻《さきた》、俺ア来る時《どき》、巡査ア彼家《あすこ》へ行つたけどら。今日検査の時ア裏の小屋さ隠れたつけア、誰か知らせたべえな。昨日《きのな》から顔色《つらいろ》ア悪くてらけもの。』
『そんでヤハアお常ツ子も罹《かか》つたアな。』と囁いて、一同《みんな》は密《そつ》と松太郎を見た。お由の眼玉はギロリと光つた。
 松太郎は、首を垂れて、涎《よだれ》を流して、何か『ウウ』と唸つてゐる。
 跫音は遠く消えた。
『帰《けえ》るべえどら。』と、顔のしやくつたのが先づ立つた。松太郎は、ゴロリ、崩れる如く横になつて了つた。
 それから一時間許り経つた。
 松太郎はポカリと眼を覚ました。寒い。炉の火が消えかかつてゐる。ブルツと身顫《みぶる》ひして体を半分|擡《もた》げかけると、目の前にお由の大きな体が横たはつてゐる。眠つたのか、小動
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