ぬ訳に行かなくなつた。其時思出したのは、五六年前――或は渠が生村《うまれむら》の役場に出てゐた頃かも知れぬ――或新聞で香竄葡萄酒《かうざんぶどうしゆ》の広告の中に、伝染病予防の効能があると書いてあつたのを読んだ事だ。渠は恁ういふ事を云出した。『天理様は葡萄酒がお好きぢや。お好きな物を上げてお頼みするに病気なんかするものぢやないがな。』
 流石に巡査の目を憚《はばか》つて、日が暮れるのを待つて御供水《おそなへみづ》を貰ひに来る嬶共《かかあども》は、有乎無乎《なけなし》の小袋を引敝《ひつぱた》いて葡萄酒を買つて来る様になつた。松太郎はそれを犠卓《にへづくゑ》に供へて、祈祷をし、御神楽を踊つて、その幾滴を勿体らしく御供水に割つて、持たして帰す。残つたのは自分が飲むのだ。お由の家の台所の棚には、葡萄酒の空瓶が十八九本も並んだ。


 奈何《どう》したのか、鍛冶屋の音響《ひびき》も今夜は例《いつ》になく早く止んだ。高く流るる天の河の下に、村は死骸の様に黙してゐる。今し方、提灯が一つ、フラフラと人魂の様に、役場と覚しき門から迷ひ出て、半町許りで見えなくなつた。
 お由の家の大炉には、チロリチロリと焚火が燃えて、居並ぶ種々の顔を赤く黒く隈取つた。近所の嬶共が三四人、中には一番遅れて来たお申婆《さるばばあ》も居た。
 祈祷も御神楽も済んだ。松太郎はトロリと酔つて了つて、だらしなく横座《よこざ》に胡坐《あぐら》をかいてゐる。髪の毛の延びた頭がグラリと前に垂れた。葡萄酒の瓶がその後に倒れ、漬物の皿、破茶碗《かけぢやわん》などが四辺《あたり》に散乱《ちらば》つてゐる。『其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》に痛えがす? お由殿《よしどな》、寝だら可《え》がべす。』
と、一人の顔のしやくんだ嬶が言つた。
『何有《なあに》!』
 恁《か》う言つて、お由は腰に支《か》つた右手を延べて、燃え去つた炉の柴を燻《く》べる。髪のおどろに乱れかかつた、その赤黒い大きい顔には、痛みを怺《こら》へる苦痛《くるしみ》が刻まれてゐる。四十一までに持つた四人の夫、それを皆|追出《おんだ》して遣つた悪党女ながら、養子の金作が肺病で死んで以来、口は減らないが、何処となく衰へが見える。乱れた髪には白いのさへ幾筋か交つた。
『真箇《ほんと》だぞえ。寝れば癒るだあに。』と
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