なア。』と言ひは言つたが、松太郎、余り諄《くど》く訊かれるので何がなしに二の足を踏みたくなつた。
『先生、そンだらハア、』と、重兵衛は突然《いきなり》膝を乗出した。『俺《おら》が成つてやるだ。今夜から。』
『信者にか?』と、鈍い眼が俄かに輝く。
『然うせえ。外に何になるだア!』
『重兵衛さん、そら真箇かな?』と、松太郎は筒抜けた様な驚喜の声を放つた。三日目に信者が出来る、それは渠の全く予想しなかつた所、否、渠は何時、自分の伝道によつて信者が出来るといふ確信を持つた事があるか?
この鍛冶屋の重兵衛といふのは、針の様な髯を顔一面にモヂヤモヂヤさした、それはそれは逞しい六尺近の大男で、左の眼が潰れた、『眇目鍛冶《めつこかぢ》』と小供等が呼ぶ。齢は今年五十二とやら、以前《もと》十里許り離れた某町に住つてゐたが、鉈、鎌、鉞《まさかり》などの荒道具が得意な代り、此人の鍛《う》つた包丁は刃が脆いといふ評判、結局は其土地を喰詰めて、五年前にこの村に移つた。他所者《たしよもの》といふが第一、加之《それに》、頑固《いつこく》で、片意地で、お世辞一つ言はぬ性《たち》なもんだから、兎角村人に親《したし》みが薄い。重兵衛それが平生《ひごろ》の遺恨で、些《ちよい》とした手紙位は手づから書けるを自慢に、益々頭が高くなつた。規定《きまり》以外の村の費目《いりめ》の割当などに、最先《まつさき》に苦情を言出すのは此人に限る。其処へ以て松太郎が来た。聴いて見ると間違つた理屈でもなし、村寺の酒飲和尚《さけのみおしやう》よりは神々の名も沢山に知つてゐる。天理様の有難味も了解《のみこ》んで了解《のみこ》めぬことが無ささうだ。好矣《よし》、俺《おら》が一番先に信者になつて、村の衆の鼻毛を抜いてやらうと、初めて松太郎の話を聴いた晩に寝床の中で度胸を決めて了つたのだ。尤も、重兵衛の遠縁の親戚が二軒、遙《ずつ》と隔つた処にゐて、既《とう》から天理教に帰依してるといふ事は、予《かね》て手紙で知つてもゐ、一昨年の暮弟の家に不幸のあつた時、その親戚からも人が来て重兵衛も改宗を勧められた事があつた。但し此事は松太郎に対して噎《おくび》にも出さなかつた。
翌朝、松太郎は早速○○支部に宛てて手紙を出した。四五日経つて返書が来た。その返書は、松太郎が逸早《いちはや》く信者を得た事を祝して其伝道の前途を励まし、この村に寄留したい
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