である際でも、決して小さい損ではないと言うのである。
 妻を有ちながら、他の女に通ぜねばならなくなった、或《あるい》はそういう事を考えねばならなくなった男があるとする。そして、有妻の男子が他の女と通ずる事を罪悪とし、背倫《はいりん》の行為とし、唾棄《だき》すべき事として秋毫《しゅうごう》寛《ゆる》すなき従来の道徳を、無理であり、苛酷《かこく》であり、自然に背《そむ》くものと感じ、本来男女の関係は全く自由なものであるという原始的事実に論拠して、従来の道徳に何処《どこ》までも服従すべき理由とては無いのだと考えたとする。其処《そこ》までは可《い》い。もしもその際、問題の目的が「然《しか》らば男女関係の上に設くべき、無理でなく、苛酷でなく、自然に背くものでないところの制約はどんなものであらねばならぬか」という事であるのを忘れて了《しま》って、既に従来の道徳は必然服従せねばならぬものでない以上、凡《すべ》ての夫が妻ならぬ女に通じ、凡ての妻が夫ならぬ男に通じても可いものとし、乃至《ないし》は、そうしない夫と妻とを自覚のない状態にあるものとして愍《あわ》れむに至っては、性急《せっかち》もまた甚《はなは》だしいと言わねばならぬ。その結果は、啻《ただ》に道徳上の破産であるのみならず、凡ての男女関係に対する自分自身の安心というものを全く失って了わねば止《や》まない、乃《すなわ》ち、自己その物の破産である。問題が親子の関係である際も同《おなじ》である。

        二

 右の例は、一部の人々ならば「近代的」という事に縁が遠いと言われるかも知れぬ。そんなら、この処に一人の男(仮令《たとえ》ば詩を作る事を仕事にしている)があって、自分の神経作用が従来の人々よりも一層鋭敏になっている事に気が付き、そして又、それが近代の人間の一つの特質である事を知り、自分もそれらの人々と共に近代文明に醸《かも》されたところの不健康(には違いない)な状態にあるものだと認めたとする。それまでは可い。もしもその際に、近代人の資格は神経の鋭敏という事であると速了《そくりょう》して、あたかも入学試験の及第者が喜び勇んで及第者の群に投ずるような気持で、(その実落第者でありながら。――及第者も落第者も共に受験者である如く、神経組織の健全な人間も不健全な人間も共に近代の人間には違いない)その不健全を恃《たの》み、かつ誇
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