、朝から晩まで働きづめに働いて、そしてバタリと死にたいものだ。』斯ういふ事を何度私は電車の中で考へたか知れない。時としては、把手《ハンドル》を握つたまま一秒の弛みもなく眼を前方に注いで立つてゐる運轉手の後姿を、何がなしに羨ましく尊く見てゐる事もあつた。
 ――斯うした生活のある事を、私は一年前まで知らなかつた。

 然し、然し、時あつて私の胸には、それとは全く違つた心持が卒然として起つて來る。恰度忘れてゐた傷の痛みが俄かに疼《うづ》き出して來る樣だ。抑へようとしても抑へきれない、紛らさうとしても紛らしきれない。
 今迄明かつた世界が見る間に暗くなつて行く樣だ。樂しかつた事が樂しくなくなり、安んじてゐた事が安んじられなくなり、怒らなくても可い事にまで怒りたくなる。目に見、耳に入る物一つとして此の不愉快を募らせぬものはない。山に行きたい、海に行きたい、知る人の一人もゐない國に行きたい、自分の少しも知らぬ國語を話す人達の都に紛れ込んでゐたい……自分といふ一生物の、限りなき醜さと限りなき愍然さを心ゆく許り嘲つてみるのは其の時だ。
[#地から1字上げ](明治43[#「43」は縦中横]・6「新小説
前へ 次へ
全11ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング