なるものか!』さう自分で自分を叱つて、私はまた散りさうになる心を爲事に集る。其の時、假令其の爲事が詰らぬ仕事であつても、私には何の慾もない。不平もない。頭腦と眼と手と一緒になつて、我ながら驚くほど敏活に働く。
實に好い氣持だ。『もつと、もつと、もつと急がしくなれ。』と私は思ふ。
やがて一しきり其の爲事が濟む。ほつと息をして煙草をのむ。心よく腹の減つてる事が感じられる。眼にはまだ今迄の急がしかつた有樣が見えてゐる樣だ。『ああ、もつと急がしければ可かつた!』と私はまた思ふ。
私は色々の希望を持つてゐる。金も欲しい、本も讀みたい、名聲も得たい。旅もしたい、心に適つた社會にも住みたい、自分自身も改造したい、其他數限りなき希望はあるけれども、然しそれ等も、この何にまれ一つの爲事の中に沒頭してあらゆる慾得を忘れた樂みには代へ難い。――と其の時思ふ。
家へ歸る時間となる。家へ歸つてからの爲事を考へて見る。若し有れば私は勇んで歸つて來る。が、時として差迫つた用事の心當りの無い時がある。『また詰らぬ考へ事をせねばならぬのか!』といふ厭な思ひが起る。『願はくば一生、物を言つたり考へたりする暇もなく
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