初めて見たる小樽
石川啄木

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)択《えら》び出《い》ず。

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)相|率《ひき》いて
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 新らしき声のもはや響かずなった時、人はその中から法則なるものを択《えら》び出《い》ず。されば階級といい習慣といういっさいの社会的法則の形成せられたる時は、すなわちその社会にもはや新らしき声の死んだ時、人がいたずらに過去と現在とに心を残して、新らしき未来を忘るるの時、保守と執着と老人とが夜の梟《ふくろう》のごとく跋扈《ばっこ》して、いっさいの生命がその新らしき希望と活動とを抑制せらるる時である。人性本然の向上的意力が、かくのごとき休止の状態に陥ることいよいよ深くいよいよ動かすべからずなった時、人はこの社会を称して文明の域に達したという。一史家が鉄のごとき断案を下して、「文明は保守的なり」といったのは、よく這般《しゃはん》のいわゆる文明を冷評しつくして、ほとんど余地を残さぬ。
 予は今ここに文明の意義と特質を論議せむとする者ではないが、もし叙上のごとき状態をもって真の文明と称するものとすれば、すべての人の誇りとするその「文明」なるものは、けっしてありがたいものではない。人は誰しも自由を欲するものである。服従と自己抑制とは時として人間の美徳であるけれども、人生を司配すること、この自由に対する慾望ばかり強くして大なるはない。歴史とは大人物の伝記のみとカーライルの喝破《かっぱ》した言にいくぶんなりともその理を認むる者は、かの慾望の偉大なる権威とその壮厳なる勝利とを否定し去ることはとうていできぬであろう。自由に対する慾望とは、啻《ただ》に政治上または経済上の束縛《そくばく》から個人の意志を解放せむとするばかりでなく、自己みずからの世界を自己みずからの力によって創造し、開拓し、司配せんとする慾望である。我みずから我が王たらんとし、我がいっさいの能力を我みずから使用せんとする慾望である。人によりて強弱あり、大小はあるが、この慾望の最も熾《さか》んな者はすなわち天才である。天才とは畢竟《ひっきょう》創造力の意にほかならぬ。世界の歴史はようするに、この自主創造の猛烈な個人的慾望の、変化極りなき消長を語るものであるのだ。嘘と思うなら、かりにいっさいの天才英雄を歴史の上から抹殺《まっさつ》してみよ。残るところはただ醜き平凡なる、とても吾人の想像にすらたゆべからざる死骸《しがい》のみではないか。
 自由に対する慾望は、しかしながら、すでに煩多《はんた》なる死法則を形成した保守的社会にありては、つねに蛇蠍《だかつ》のごとく嫌われ、悪魔のごとく恐れらるる。これ他なし、幾十年もしくは幾百年幾千年の因襲的《いんしゅうてき》法則をもって個人の権能を束縛する社会に対して、我と我が天地を造らむとする人は、勢いまず奮闘《ふんとう》の態度を採《と》り侵略の行動に出なければならぬ。四囲の抑制ようやく烈しきにしたがってはついにこれに反逆し破壊するの挙に出る。階級といい習慣といい社会道徳という、我が作れる縄に縛られ、我が作れる狭き獄室に惰眠《だみん》を貪《むさぼ》る徒輩《とはい》は、ここにおいて狼狽《ろうばい》し、奮激《ふんげき》し、あらん限りの手段をもって、血眼《ちまなこ》になって、我が勇敢なる侵略者を迫害する。かくて人生は永劫《えいごう》の戦場である。個人が社会と戦い、青年が老人と戦い、進取と自由が保守と執着に組みつき、新らしき者が旧き者と鎬《しのぎ》を削《けず》る。勝つ者は青史の天に星と化して、芳《かん》ばしき天才の輝きが万世に光被《こうひ》する。敗れて地に塗《まみ》れた者は、尽きざる恨みを残して、長しなえに有情の人を泣かしめる。勝つ者はすくなく、敗るる者は多い。
 ここにおいて、精神界と物質界とを問わず、若き生命の活火を胸に燃した無数の風雲児《ふううんじ》は、相|率《ひき》いて無人の境に入り、我みずからの新らしき歴史を我みずからの力によって建設せんとする。植民的精神と新開地的趣味とは、かくて驚くべき勢力を人生に植えつけている。
 見よ、ヨーロッパが暗黒時代《ダアクエージ》の深き眠りから醒《さ》めて以来、幾十万の勇敢なる風雲児が、いかに男らしき遠征をアメリカアフリカ濠州および我がアジアの大部分に向って試みたかを。また見よ、北の方なる蝦夷《えぞ》の島辺、すなわちこの北海道が、いかにいくたの風雲児を内地から吸収して、今日あるに到ったかを。
 我が北海道は、じつに、我々日本人のために開かれた自由の国土である。劫初《ごうしょ》以来人の足跡つかぬ白雲落日の山、千古斧入らぬ蓊鬱《おううつ》の大森林、広漠《こうばく》としてロシアの田園を偲《しの》ばしむる大原野、魚族群って白く泡立つ無限の
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