》の人《ひと》――これ、此方の人、此方の人ッたら、ホホヽヽヽヽ。』
それは鋭い女の聲であつた。私は足を緩めた。
『狂人の多くなつた丈、我々の文明が進んだのだ。ハハヽヽ。』と後藤君は言出した。『君はまだ那※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]聲を聞かうとするだけ若い。僕なんかは其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]暇はない。聞えても成るべく聞かぬ樣にしてる。他の事よりア此方の事だもの。』
然うしてズシリ/\と下駄を引擦り乍ら先に立つて歩く。
『實際だ。』と私も言つたが、狂人の聲が妙に心を動かした。普通の人間と狂人との距離が其時ズッと接近して來てる樣な氣がした。『後藤君も苦しいんだ!』其※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]事を考へ乍ら、私は足元に眼を落して默つて歩いた。
『ところで君、徐々《そろ/\》話を始めようぢやないか?』と後藤君は言出した。
『初めよう。僕は先刻から待つてる。』と言つたが、その實、私は既う大した話でも無い樣に思つてゐた。
『實はね、マア好い方の話なんだが、然し餘程考へなくちや決行されない點もある――』
然う言つて後藤君の話した話は次の樣なことであつた。――今度小樽に新らしい新聞が出來る。出資者はY――氏といふ名のある事業家で、創業資は二萬圓、維持費の三萬圓を年に一萬宛注込んで、三年後に獨立經濟にする計畫である。そして、社長には前代議士で道會に幅を利かしてゐるS――氏がなるといふので。
『主筆も定つてる。』と友は言葉を亞《つ》いだ。『先にH――新聞にゐた山岡といふ人で、僕も二三度面識がある、その人が今編輯局編成の任を帶びて札幌に來てゐる。實は僕にも間接に話があつたので、今日行つて打突《ぶつつか》つて見て來たのだ。』
『成程。段々面白くなつて來たぞ。』
『無論その時君の話もした。』と熱心な調子で言つた。暗い町を肩を並べて歩き乍ら、稀なる往來の人に遠慮を爲《し》い/\密《ひそ》めた聲も時々高くなる。後藤君は暗い中で妙な手振をし乍ら、『僕の事はマア不得要領な挨拶をしたが、君の事は君さへ承知すれば直ぐ決る位に話を進めて來た。無論現在よりは條件も可ささうだ。それに君は家族が小樽に居るんだから都合が可いだらうと思ふんだ。』
『それア先《ま》アさうだ。が、無論君も行くんだらう?』
『其處だテ。奈何も其處だテ――』
『何が?』
『主筆は十月一日に第一囘編輯會議を開く迄に顏觸れを揃へる責任を受負つたんで、大分|焦心《あせ》つてる樣だがね。』
『十月一日! あと九日しかない。』
『然うだ。――實はね、』と言つて、後藤君は急に聲を高くした。『僕も大いに心を動かしてる。大いに動かしてゐる。』
然うして二度許り右の拳を以て空氣を切つた。
『それなら可いぢやないか?』と私も聲を高めた。『奈何《どう》せ天下の浪人共だ。何も顧慮する處はない。』
『其處だ。君はまだ若い、僕はも少し深く考へて見たいんだ。』
『奈何考へる?』
『詰りね、單に條件が可いから行くといふだけでなくね。――それは無論第一の問題だが――多少君、我々の理想を少しでも實行するに都合が好い――と言つた樣な點を見付けたいんだ。』(未完)
底本:「石川啄木作品集 第三巻」昭和出版社
1970(昭和45)年11月20日発行
※底本の「『奈何《どうせ》せ」は、「『奈何《どう》せ」」にあらためました。
※疑問点の確認にあたっては、「啄木全集 第三巻」筑摩書房、1967(昭和42)年7月30日初版第1刷発行を参照しました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:Nana ohbe
校正:林 幸雄
2003年10月23日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング