に其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》事言ふと、母さんに叱られますよ。』
と、姉が妹を譴《たしな》める。
『ハハヽヽ。』と軽く笑つて、私は室に入つて了つた。
『だつて、切角戴いたのは姉ちやんが取上げたんだもの……』と、民子が不平顔をして言つてる様子。
 真佐子は、口を抑へる様にして何か言つて慰《なだ》めてゐた。
 私は毎日午後一時頃から社に行つて、暗くなる頃に帰つて来る。その日は帰途《かへり》に雨に会つて来て、食事に茶の間に行くと、外の人は既《も》う済んで私|一人限《ひとりきり》だ。内儀は私に少し濡れた羽織を脱がせて、真佐子に切炉の火で乾《ほ》させ乍ら、自分は私に飯を装《よそ》つて呉れてゐた。火に翳した羽織からは湯気が立つてゐる。思つたよりは濡れてゐると見えて却々《なかなか》乾せない。好《い》い事にして私は三十分の余も内儀相手にお喋舌《しやべり》をしてゐた。


 その翌日、私の妻が来た。既《も》う函館からは引上げて小樽に来てゐるのであるが、さう何時までも姉の家に厄介になつても居られないので、それやこれやの打合せに来たのだ。私の子供は生れてやつと九ヶ月にしかならなかつたが、来ると直ぐ忘れないでゐて私に手を延べた。
 が、心がけては居たつたが、空家、せめて二間位の空間と思つても、それすら有りさうになかつた。困つて了つて宿の内儀に話をすると、
『然うですねえ。それでは恁《か》うなすつちや如何でせう、貴方のお室は八畳ですから、お家の見付かるまで当分此処で我慢をなさる事になすつては? さうなれば目形さんには別の室に移つて頂くことに致しますから。何で御座いませう、貴方方もお三人|限《きり》……?』
『まだ年老つた母があります。外にもあるんですが、それは今直ぐ来なくても可いんです。』
『マア然うですか、阿母《おつか》さんも御一緒に! ……それにしても立見さんの方よりは窮屈でない訳ですわねえ、当分の事ですから。』
 話はそれに決つて、妻は二三日中に家財を纏めて来ることになつた。女同志は重宝なもので、妻は既う内儀と種々|生計向《くらしむき》の話などをしてゐる。
 真佐子は、妻の来るとから私の子供を抱いて、のべつに頬擦りをし乍ら、家の中を歩いたり、外へ行つたりしてゐた。泣き出しさうにならなければ妻の許《ところ》に伴れて来ない。
『小便《おしつこ》しては可けませんから。』と妻が言つても、
『否《いいえ》、構ひませんから、も少し借して下さい。』と言つて却々《なかなか》放さない。母親は笑つてゐた。
 二人限になつた時、妻は何かの序《ついで》に恁※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《こんな》事を言つた。
『真佐子さんは少し藪睨みですね。穏《おとな》しい方でせう。』
 軈て出社の時刻になつた。玄関を出ると、其処からは見えない生垣の内側に、私の子を抱いた真佐子が立つてゐた。私を見ると、
『あれ、父様ですよ、父様ですよ。』と言つて子供に教へる。
『重くありませんか、其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》に抱いてゐて?』
『否《いいえ》、嬢ちやん、サア、お土産《みや》を買つて来て下さいツて。マア何とも仰しやらない!』
と言ひながら、耐らないと言つた態《ふう》に頬擦りをする。赤児を可愛がる処女には男の心を擽る様な点《ところ》がある。私は二三歩真佐子に近づいたが、気がつくと玄関にはまだ妻が立つてるので、其儘門外へ出て了つた。
 帰つて来た時は、小樽へ帰る私の妻を停車場まで見送りに行つた真佐子も、今し方帰つた許りといふところであつた。その晩は、立見君は牧師の家に出かけて行つたので、私は室にゐて手紙などを書いた。茶の間からは女達の話声が聞える。真佐子は私の子供の可愛かつた事を頻りに数へ立てゝゐる、立見君の細君もそれに同じてはゐたが、何となく気の乗らぬ声であつた。


 翌日は社に出てから初めての日曜日、休みではないが、明くる朝の新聞は四頁なので四時少し前に締切になつた。後藤君はその日欠勤した。帰つて来て寝ころんでゐると、後藤君が相変らずの要領を得ない顔をして入つて来て、
『少し相談があるから、今夜七時半に僕の下宿へ来給へ。僕は他《よそ》を廻つてそれ迄に帰つてるから。』
と言つて出て行つた。直ぐ戻つて来て私を玄関に呼出すから、何かと思ふと、
『君、秘密な話だから、一人で来てくれ給へ。』
『好し。一体何だね? 何か事件が起つたのかね?』
『君、声が高いよ。大に起つた事があるさ。吾党の大事だ。』と、黄色い歯を出しかけたが、直ぐムニヤ/\と口を動かして、『兎に角来給へ。成るべく僕の処へ来るのを誰にも知らせない方が好いな。』
 そして、右の肩を揚げ、薄い下駄を引擦る様にして出て行つて了つた。「よく秘密にしたがる男だ!」と私は思つた。
 私はその晩の事が忘られない。
 夕飯が済むと、立見君と目形君は教会に行くと言つて、私にも同行を勧めた。私は社長の宅へ行く用があると言つて断つた。そして約束の時間に後藤君の下宿へ行つた。
 座にはS――新聞の二面記者だといふ男がゐた。後藤君は私を其男に紹介《ひきあは》せた。私は、その男が所謂「秘密の相談」に関係があるのか、無いのか、一寸判断に困つた。片目の小さい、始終《しよつちゆう》唇を甜《な》め廻す癖のある、鼻の先に新聞記者がブラ下つてる様な挙動《やうす》や物言ひをする、可厭《いや》な男であつた。
 少し経つと、後藤君は私に、
『君は既《も》う先に行つたのかと思つてゐた。よく誘つて呉れたね。』
 これで了解《のみこ》めたから、私も可《いい》加減にバツを合せた。そして、
『まだ七時頃だらうね?』
『奈何《どう》して、奈何して、既《も》う君八時ぢやないか知ら。』
『待ち給へ。』とS――新聞の記者が言つて、帯の間の時計を出して見た。『七時四十分。何処かへ行くのかね?』
『あゝ、七時半までの約束だつたが――』
『然うか。それでは僕の長居が邪魔な訳だね。近頃は方々で邪魔にしやがる。処で行先は何処だ?』
『ハハヽヽ。然う一々|他《ひと》の行先に干渉しなくても可いぢやないか。』
『秘《かく》すな! 何有《なあに》、解つてるよ、確乎《ちやん》と解つてるよ。高が君等の行動が解らん様では、これで君、札幌はいくら狭くつても新聞記者の招牌《かんばん》は出されないからね。』
『凄じいね。ところで今夜はマアそれにして置くから、お慈悲を以てこれで御免を蒙らして頂かうぢやないか?』
『好し、好し。今帰つてやるよ。僕だつて然う没分暁漢《わからずや》ではないからね、先刻御承知の通り。処でと――』と、腕組をして凝乎《じつ》と考へ込む態《ふう》をする。
『何を考へるのだ、大先生?』
『マ、マ、一寸待つてくれ。』
『金なら持つてないぜ。』
『畜生奴! ハハヽヽ、先を越しやがつた。何有《なあに》、好し、好し、まだ二三軒心当りがある。』
『それは結構だ。』
『冷評《ひやか》すない。これでも△△さんでなくては夜も日も明けないツて人が待つてるんだからね。然うだ、金崎の処へ行つて三両許り踏手繰《ふんだくつ》てやるか。――奈何《どう》だい、出懸けるなら一緒に出懸けないか?』
『何有《なあに》、悪い処へは行かないから、安心して先に出て呉れ給へ。』
『莫迦に僕を邪魔にする! が、マア免して置け。その代り儲かつたら割前を寄越さんと承知せんぞ。左様なら。』
 そして室を出しなに後を向いて、
『君等ア薄野《すすきの》(遊廓)に行くんぢやないのか?』と狐疑深《うたぐりぶか》い目付をした。
 その男を送出して室に帰ると、後藤君は落胆《がつかり》した様な顔をして、眉間に深い皺を寄せてゐた。
『遂々《たうたう》追出してやつた、ハハヽヽ。』と笑ひ乍ら坐つたが、張合の抜けた様な笑声であつた。そして、
『あれで君、彼奴《あいつ》はS――社中では敏腕家なんだ。』
『可厭《いや》な奴だねえ。』
『君は案外人嫌ひをする様だね。あれでも根は好人物《おひとよし》で、訛《だま》せるところがある。』
『但し君は人を訛すことの出来ない人だ。』
『然うか……も知れないな。』と言つて、グタリと頤を襟に埋めた。そして、手で頸筋を撫でながら、
『近頃此処が痛くて困る。少し長い物を書いたり、今の様な奴と話をしたりすると、屹度痛くなつて来る。』
『神経痛ぢやないか知ら。』
『然うだらうと思ふ。神経衰弱に罹つてから既《も》う三年許りになるから喃《なあ》。』
『医者には?』
『かゝらない、外の病気と違つて薬なんかマア利かないからね。』
『でも君、構はずに置くよりア可かないか知ら。』
『第一、医者にかゝるなんて、僕にア其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》暇は無い。』
 然う言つて首を擡《もた》げたが、
『暇が無いんぢやアない、実は金が無いんだ。ハハヽヽ。有るものは借金と不平ばかり。然うだ、頸の痛いのも近頃は借金で首が廻らなくなつたからかも知れない。』
 後藤君は取つてつけた様に寂しい高笑ひをした。そして、冷え切つた茶碗を口元まで持つて行つたが、不図気が付いた様に、それを机の上に置いて、
『ヤア失敬、失敬。君にはまだ茶を出さなかつた。』
『茶なんか奈何《どう》でも可いが、それより君、話ツてな何です?』
『マア、マア、男は其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]に急ぐもんぢやない。まだ八時前だもの。』
 然う言つて、薬罐の蓋をとつて見ると、湯はある。出からしになつた急須の茶滓を茶碗の一つに空けて、机の下から小さい葉鉄《ブリキ》の茶壺を取出したが、その手付がいかにも懶《ものぐ》さ相《さう》で、私の様な気の早い者が見ると、もどかしくなる位|緩々《のろのろ》してゐる。
 ギシ/\する茶壺の蓋を取つて、中蓋の取手に手を掛けると、其儘後藤君は凝乎《じつ》と考へ込んで了つた。左の眉の根がピクリ、ピクリと神経的に痙攣《ひきつ》けてゐる。
 やゝあつてから、
『君、』と言つて中蓋を取つたが、その儘茶壺を机の端に載せて、
『僕等も出掛けようぢやないか? 少し寒いけれど。』
『何処へ?』
『何処へでも可い。歩きながら話すんだ。此室《ここ》には、(と声を落して、目で壁隣りの室を指し乍ら、)君、S――新聞の主筆の従弟といふ奴が居るんだ。恁※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]処で一時間も二時間も密談してると人にも怪まれるし、第一|此方《こつち》も気が塞《つま》る。歩き乍らの方が可い。』
『何をしてるね、隣の奴は?』
『其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》声で言ふと聞えるよ。何有《なあに》、道庁の学務課へ出てゐる小役人だがね。昔から壁に耳ありで、其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《どんな》処から計画が破れるか知れないから喃《なあ》。』
『一体マア何の話だらう? 大層勿体をつけるぢやないか? 蓋許り沢山あつて、中には甚※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]美味い饅頭が入つてるんか、一向アテが付かない。』
『ハハヽヽ。マア出懸けようぢやないか?』
 で、二人は戸外に出た。後藤君は既《も》う蓋を取つた茶壺の事は忘れて了つた様であつた。私は、この煮え切らぬ顔をした三十男が、物事を恁うまで秘密にする心根に触れて、そして、見悄《みすぼ》らしい鳥打帽を冠り、右の肩を揚げてズシリ/\と先に立つて階段を降りる姿を見下し乍ら、異様な寒さを感じた。出かけない主義が、何も為出かさぬ間《うち》に活力を消耗して了つた立見君の半生を語る如く、後藤君の常に計画し常に秘密にしてゐるのが、矢張またその半生の戦ひの勝敗を語つてゐた。
 札幌の秋の夜はしめやかであつた。其辺《そこら》は既《も》
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング