ている事実(微罪不検挙の事実、東京並びに各都市における無数の売淫婦が拘禁《こうきん》する場所がないために半公認の状態にある事実)は何を語るか。
 かくのごとき時代閉塞の現状において、我々のうち最も急進的な人たちが、いかなる方面にその「自己」を主張しているかはすでに読者の知るごとくである。じつに彼らは、抑えても抑えても抑えきれぬ自己その者の圧迫に堪《た》えかねて、彼らの入れられている箱の最も板の薄い処、もしくは空隙(現代社会組織の欠陥)に向ってまったく盲目的に突進している。今日の小説や詩や歌のほとんどすべてが女郎買《じょろうがい》、淫売買、ないし野合《やごう》、姦通《かんつう》の記録であるのはけっして偶然ではない。しかも我々の父兄にはこれを攻撃する権利はないのである。なぜなれば、すべてこれらは国法によって公認、もしくはなかば公認されているところではないか。
 そうしてまた我々の一部は、「未来」を奪われたる現状に対して、不思議なる方法によってその敬意と服従とを表している。元禄時代に対する回顧《かいこ》がそれである。見よ、彼らの亡国的感情が、その祖先が一度|遭遇《そうぐう》した時代閉塞の状態に対する同感と思慕とによって、いかに遺憾《いかん》なくその美しさを発揮しているかを。
 かくて今や我々青年は、この自滅の状態から脱出するために、ついにその「敵」の存在を意識しなければならぬ時期に到達しているのである。それは我々の希望やないしその他の理由によるのではない、じつに必至である。我々はいっせいに起ってまずこの時代|閉塞《へいそく》の現状に宣戦しなければならぬ。自然主義を捨て、盲目的反抗と元禄の回顧とを罷《や》めて全精神を明日の考察――我々自身の時代に対する組織的考察に傾注《けいちゅう》しなければならぬのである。

     五

 明日の考察! これじつに我々が今日においてなすべき唯一である、そうしてまたすべてである。
 その考察が、いかなる方面にいかにして始めらるべきであるか。それはむろん人々各自の自由である。しかしこの際において、我々青年が過去においていかにその「自己」を主張し、いかにそれを失敗してきたかを考えてみれば、だいたいにおいて我々の今後の方向が予測されぬでもない。
 けだし、我々明治の青年が、まったくその父兄の手によって造りだされた明治新社会の完成のために有用な人
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