(と母が呼んでゐた。)は別段泣きもしなかつたと、私の母は妙に恨みを持つてゐたものである。事情はよく知らないが、源作叔父は其儘、嫂《あによめ》のお喜勢さんと夫婦《いつしよ》になつた。お政といふ唖の児も、実は源作の種だらうといふ噂も聞いた事がある。
 私の物心ついた頃、既に高田家に老人《としより》が無かつた。私の家にもなかつた。微《かす》かに記憶えてゐる所によれば、私が四歳《よつつ》の年に祖父《おぢい》さんが死んで、狭くもない家一杯に村の人達が来た。赤や青や金色銀色の紙で、花を拵へた人もあつたし、お菓子やら餅やら沢山貰つた。私は珍らしくて、嬉しくつて、人と人との間を縫つて、室《へや》から室と跳歩いたものだ。
 道楽者の叔父は、飲んで、飲んで、田舎一般の勘定日なる盆と大晦日の度、片端《かたつぱじ》から田や畑を酒屋に書入れて了つた。残つた田畑は小作に貸して、馬も売つた。家の後の、目印になつてゐた大欅まで切つて了つた。屋敷は荒れるが儘。屋根が漏つても繕はぬ。障子が破れても張換へない。叔父の事にしては、家が怎《ど》うならうと、妻子が甚※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2
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