膳部が運ばれた。「入交《いりまぜ》になつた方が可からう。」と云ふ、私の方の主筆の發端で、人々は一時ドヤドヤと立つたが、
『男振の好い人の中に入ると、私の顏が一層惡く見えて不可《いかん》けれども。』
と笑ひながら、志田君は私と西山社長との間に坐つた。
酒となると談話が急に噪《はしや》ぐ。其處にも此處にも笑聲が起つた。五人の藝妓の十の袂が、銚子と共に忙がしく動いて、艶《なまめ》いた白粉の香が、四角に立てた膝をくづさせる。點けた許りの明るい吊洋燈《つるしランプ》の周匝《あたり》には、莨の煙が薄く渦を卷いて居た。
親善を厚うするとか、相互の利害を議するとか、連絡を圖るとか、趣旨は頗る立派であつたけれど、月例會は要するに、飮んで、食つて、騷ぐ會なので、主筆の所謂人の惡い奴許りだから、隨分と方々に圓滑な皮肉が交換されて、其度にさも面白相な笑聲が起る。意外《とんだ》事を素破《すつぱ》拔かれた藝妓が、對手が新聞記者だけに、弱つて了つて、援助を朋輩に求めてるのもあれば、反對に藝妓から素破《すつぱ》拔かれて頭を掻く人もある。五人の藝妓の中、其處からも此處からも名を呼び立てられるのは、時々編集局でも名を聞く市子と謂ふので、先刻《さつき》膳を運ぶ時、目八分に捧げて、眞先に入つて來て、座敷の中央へ突立つた儘、「マア怎[#「怎」は底本では「恁」]うしよう、私は。」と、仰山に驚いた姿態《しな》を作つた妓《こ》であつた。それは私共が皆一團になつて、障子際に火鉢を圍んで居たから、御膳の据場所が無かつたからで。十六といふ齡には少し老《ま》せて居るが、限りなき愛嬌を顏一杯に漲らして、態とらしからぬ身振が人の氣を引いた。
志田君は、盃を下にも置かず、相不變《あひかはらず》愛嬌を振舞いて居たが、お酌に※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]つて來た市子を捉へて私の前に坐らせ、兩手の盃を一つ私に獻《さ》して、
『市ちやん、此方は今度「日報」へお出になつた橘さんといふ方だ、お年は若し、情は深し、トまでは知らないが、豪い方だからお近付になつて置け。他日《あと》になつて惡い事は無いぞ。』
『アラ然《さ》うですか。お名前は新聞で承はつてましたけれど、何誰《どなた》かと思つて、遂……』と優容《しとやか》に頭を下げた。下げた頭の擧らぬうちに、
『これはおかめ[#「おかめ」に傍点]屋の市ちやん。唯三度しか男と寢た事が無いさうです。然うだつたね、市ちやん?』
『おかめ[#「おかめ」に傍点]屋なんて、人を。酷い事旦那は。』
と市子は怖い目をして見せたが、それでも志田君の貸した盃を受取つて、盃洗に淨めて私に獻《さ》した。
『印度の炭山の旦那のお媒介《とりもち》ですから、何卒末長く白ツぱくれない樣に……』
『印度の炭山の旦那は酷い。』と志田君の聲が高かつたので、皆|此方《こつち》を見た。『いくら私は色が黒いたつて、隨分念を入れた形容をしたもんだ。』
一座の人は聲を合せて笑つた。
私は初めての事でもあり、且つは、話題を絶やさぬ志田君と隣つて居る故か、自《おのづ》と人の目について、返せども返せども、盃が集つて來る。生來餘り飮《いけ》ぬ口なので、顏は既《もう》ポツポと上氣して、心臟の鼓動が足の裏までも響く。二つや三つなら未だしもの事、私の樣な弱い者には、四つ五つと盃の列んだのを見ると、醒め果てた戀に向ふ樣で、モウ手も觸《つ》けたくない。藝妓には珍しく一滴も飮まぬ市子は、それと覺つてか、密と盃洗を持つて來て、志田君に見られぬ樣に、一つ宛空けて呉れて居たが、いつしか發覺して例の圓轉自在の舌から吹聽に及ぶ。「市ちゃんも仲々腕が上つた」とか、「今の若い者は、春秋に富んで居る癖に惚れ方が性急《せつかち》だ」とか、「橘さんも隅に置けぬ」とか、一座は色めき立つて囂々《がや/\》と騷ので、市子は、
『私|此方《こつち》の爲にしたんぢやなくて、皆さんが盃を欲しさうにして被居《いらつしや》るから空《あ》けて上げたのですわ。』
と防いで見たが、遂々顏を眞赤にして次の室へ逃げた。私も皆と一緒になつて笑つた。暫時《しばらく》してから市子は輕い咳拂をして、怎《どう》やら取濟した顏をして出て來たが、いきなり復《また》私の前に坐つた。人々は、却つて之を興ある事にして、モウ市子々々と呼び立てなくなつた。
『菊池さんて方が。』と女中が襖を開けて、敷居際に手をついた。話がバタリと止んで、視線が期せずして其方に聚《あつま》る。ヌッと許り鬚面が入つて來た。
私は吸差の莨を灰に差した、人々は盃を下に置いた。西山社長は忙がしく居住ひを直して、此新來の人を紹介してから、
『馬鹿に遲いから來ないのかと思つて居た。』
と、さも容態ぶつて云つた。
『え、遲くなりました。』
と菊池君は吃る樣に答へて、變な笑ひを浮べ乍ら、ヂロヂロ一座を見※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]したが、私とは斜に一番遠い、末席の空席に悠然《ゆつたり》と胡坐《あぐら》をかく。
皆は、それとなく此人の爲す所を見て居たが、菊池君は兩手に膝頭を攫《つか》んで、俯向いて自分の前の膳部を睨んで居るので、誰しも話しかける機會を失つた。私は、空になつて居た盃を取上げて、「今來た方へ。」と市子に渡した時、志田君も殆ど同時に同じ事を云つて盃を市子に渡した。市子は二つ捧げて立つて行つたが、
『彼方《あつち》のお方からお取次で厶います。』
『誰方《どなた》?』
と、菊池君は呟《つぶや》く樣に云つて顏を擧げる。
『アノ』と、私を見た盃を隣へ逸らして、『志田さんと仰しやる方。』
菊池君は、兩手に盃を持つた儘、志田君を見て一寸頭を下げた。
『モ一つは其お隣の、…………橘さん。』と目を落す。
菊池君は私には叩頭《おじぎ》をして、滿々と酌を享けたが、此|擧動《やうす》は何となく私に興を催させた。
放浪漢《ごろつき》みたいなと主筆が云つた。成程、新聞記者社會には先づ類の無い風采で、極く短く刈り込んだ頭と、眞黒に縮れて、乳の邊まで延びた頬と顋の鬚が、皮肉家に見せたら、顏が逆さになつて居るといふかも知れぬ。二十年も着古した樣で、何色とも云へなくなつた洋服の釦が二つ迄取れて居て、窄袴《ずぼん》の膝は、兩方共、不手際に丸く黒羅紗のつぎ[#「つぎ」に傍点]が當ててあつた。剩へ洋襪《くつした》も足袋も穿いて居ず、膝を攫んだ手の指の太さは、よく服裝と釣合つて、放浪漢《ごろつき》か、土方の親分か、何れは人に喜ばれる種類の人間に見えなかつた。然し其顏は、見なれると、鬚で脅して居る程ではなく、形の整つた鼻、澁みを帶びて威のある眼、眼尻に優しい情が罩《こも》つて、口の結びは少しく顏の締りを弛めて居るけれど、若し此人に立派な洋服を着せたら、と考へて、私は不意に、河野廣中の寫眞を何處かで見た事を思出した。
菊池君から四人目、恰度《ちやうど》私と向合つて居て、藝妓を取次に二三度盃の献酬をした日下部君は、時々此方を見て居たが、遂々《とう/\》盃を握つて立つて來た。ガッシリした身體を市子と並べて坐つて不作法に四邊を見※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]したが、
『高い聲では云へぬけれど。』と低くもない聲で云つて、
『僕も新參者だから、新しく來た人で無いと味方になれん樣な氣がする。』
『私の顏は隨分古いけれど、今夜は染直したから新しくなつたでせう。』と、志田君は、首から赤銅色になつた醉顏を突出して笑つた。
市子は、仰ぐ樣にして横から日下部君の顏を見て居たが、
『私一度貴方にお目にかかつてよ、ねえ。』
『さうか、僕は氣が附かなかつた。』
『マア、以前《このまへ》も家《うち》へ入《いら》しつた癖に、…………薄情な人ね、此方は。』
と云つて、夢見る樣な目を私に向けて、微かな笑ひを含む。
『橘さんは餘り飮《や》らん方ですね。』と云つた樣な機會《きつかけ》から、日下部君と志田君の間に酒の論が湧いて、寢酒の趣味は飮んでる時よりも飮んで了つてからにある、但しこれは獨身者でなくては解りかねる心持だと云ふ志田君の説が、隨分と立入つた語を以て人々に腹を抱へさせた。日下部君は朝に四合、晩に四合飮まなくては仕事が出來ぬといふ大酒家で、成程|先刻《さつき》から大分傾けてるに不拘《かゝわらず》、少しも醉つた風が見えなかつたが、
『僕は女にかけては然程《さほど》慾の無い方だけれど、酒となつちや然《さ》うは行かん。何處かへ、一寸飮みに行つても、銚子を握つて見て、普通より太いと滿足するが、細いとか輕いとかすると、モウ氣を惡くする。錢の無い時は殊にさうだね。』
『アッハハハ。』
と突然大きな笑聲がしたので、人々は皆顏をあげた。それは菊池君であつた。
『私もそれならば至極同感ですな。』
と調子の重い太い聲。手は矢張|胡坐《あぐら》の兩膝を攫んで、グッと反返つて居た。
菊池君はヤヲラ立ち上つて、盃を二つ持つて來たが、「マア此方へ來給へ。菊池君。」と云ふ西山社長の聲がしたので、盃を私と志田君に返した儘其方へ行つて了つた。西山は何時しか向うの隅の方へ行つて、私の方の主筆と、「札幌タイムス」の支社長と三人で何か話合つて居た。
座敷の中央が、取片付けられるので、何かと思つたら、年長な藝妓が三人三味線を抱へて入口の方に列んだ。市子が立つて踊が始まる。
「香に迷ふ」とか云ふので、もとより端物ではあるけれど、濃艶な唄の文句が醉ふた心をそれとなく唆《そゝの》かす。扇の銀地に洋燈《ランプ》の光が映えて、目の前に柔かな風を匂はせる袂長く、そちら向けば朱の雲の燃ゆるかと眩しき帶の立矢の字、裾の捌きが青疊に紅の波を打つて、トンと輕き拍子毎に、チラリと見える足袋は殊更白かつた。戀に泣かぬ女の眼は若い。
踊が濟んだ時、一番先に「巧い。」と胴間聲を上げて、菊池君はまた人の目を引いた。「實に巧い、モ一つ、モ一つ。」と雀躍《こをどり》する樣にして云つた小松君の語が、三四人の反響を得て、市子は再立つ。
此度のは、「權兵衞が種蒔けや烏がほじくる。」とか云ふ、頗る道化たもので「腰付がうまいや。」と志田君が呟いて居たが、私は、「若し藝妓の演藝會でもあつたら此妓を賞めて書いてやらう。」と云つた樣な事を、醉うた頭に覺束なく考へて居た。
踊の濟むのを機會に飯が出た。食ふ人も食はぬ人もあつたが、飯が濟むと話がモウ勢《はず》んで來ない。歸る時、誰やらが後から外套を被《か》けて呉れた樣だつたが、賑やかに送り出されて、戸外《そと》へ出ると、菊池君が、私の傍へ寄つて來た。
『左の袂、左の袂。』
と云ふ。私は、何を云ふのかと思ひ乍ら、袂に手を入れて見ると、何かしら柔かな物が觸つた。モウ五六間も門口の瓦斯燈から離れてよくは見えなかつたが、それは何か美しい模樣のある淡紅色《ときいろ》の手巾《ハンカチ》であつた。
『ウワッハハハ。』と大きな聲で笑つて、菊池君は大跨に先に立つて行つたが、怎やら少しも醉つて居ない樣に見えた。
休坂《やすみざか》を下りて眞砂町の通りへ出た時は、主筆と私と八戸君と三人|限《きり》になつて居た。『隨分贅澤な會を行《や》りますねえ。』と私が云ふと、
『ナニあれでも一人一圓五十錢位なもんです。藝者は何の料理屋でも、ロハで寄附させますから。』と主筆が答へた。私は何だか少し不愉快な感じがした。
一二町歩いてから、
『可笑《をかし》な奴でせう、君。』
と主筆が云ふ。私は、市子の事ぢやないかと、一寸|狼狽《うろた》へたが、
『誰がです?』
と何氣なく云ふと、
『菊池ツて男がさ。』
『アッハハハ。』
と私は高く笑つた。
三
翌日は日曜日、田舍の新聞は暢氣《のんき》なもので、官衙や學校と同じに休む。私は平日《いつも》の如く九時頃に眼を覺した。恐ろしく喉が渇《かは》いて居るので、頭を擡げて見※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]したが、下に持つて行つたと見えて鐵瓶が無い。用の無いのに起きるのも詰らず、寒さは寒し、さればと云つて床の中で手を拍つて、女中を呼ぶのも變だと思つて、また仰向になつた。幸ひ其處へ醜女《みたくなし》の
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