歩くかも知れない。
「溝の中を歩く人、」と口の中で云つて、私は思はず微笑した。それに違ひない、アノ洋服の色は、饐《す》えた、腐つた、溝の中の汚水の臭氣で那※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《あんな》に變色したのだ。手! アノ節くれ立つた、恐ろしい手も、溝の中を歩いた證據だ。激しい勞働の痛苦が、手の指の節々に刻まれて居る。「痛苦の……生―活―の溝、」と、再《また》口の中で云つて見たが、此語は、吾乍ら鋭い錐で胸をもむ樣な連想を起したので、狼狽《うろた》へて「人生の裏路を辿る人。」と直す。
 何にしても菊池君は失敗を重ねて來た人だ、と、勝手に斷定して、今度は、アノ指が確かに私の二本前太いと思つた。で、小兒みたいに、密と自分の指を蒲團の中から出して見たが、菊池君は力が強さうだと考へる。ト、私は直ぐ其喧嘩の對手を西山社長にした。何と云ふ譯もないが、西山の厭な態度と、眼鏡越の狐疑《うたがひ》深い目付きとが、怎しても菊池君と調和しない樣な氣がするので。――西山が馬鹿に社長風を吹かして威張るのを、「毎日」の記者共が、皆蔭で惡く云つて居乍ら、面と向つてはペコペコ頭を下げる。菊池がそれを憤慨して、入社した三日目に突然、社長の頬片《ほつぺた》を擲る。社長は蹣跚《よろ/\》と行つて椅子に倒れ懸りながら、「何をするツ」と云ふ。其頭にポカポカと拳骨が飛ぶ、社長は卓子《テーブル》の下を這つて向うへ拔けて拔萃《きりぬき》に使ふ鋏を逆手に握つて眞蒼な顏をして、「發狂したか?」と顫聲で叫ぶ。菊池君は兩手を上衣の衣嚢《ポケット》に突込んで、「馬鹿な男だ喃。」と吃る樣に云ひ乍ら、悠々と「毎日」を去る。そして其足で直ぐ私の所へ來て、「日報」に入れて呉れないかと頼む。――思はず聲を立てて私は笑つた。
 が、此妄想から、私の頭腦に描かれて居る菊池君が、怎《どう》やら、アノ鬚で、權力の壓迫を春風と共に受流《うけなが》すと云つた樣な、氣概があつて、義に堅い、豪傑肌の、支那的色彩を帶びて現れた。私は、小い時に讀んだ三國史中の人物を、それか、これかと、此菊池君に當嵌《あては》めようとしたが、不圖、「馬賊の首領に恁※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《こんな》男は居ないだらうか。」と云ふ氣がした。
 馬賊……滿州……と云ふ考へは、直ぐ「遠い」と云ふ感じを起した。ト、女中が不意に襖を開けて、アノ鬚面が初めて現れた時は、菊池は何處か遠い所から來たのぢや無かつたらうかと思はれる。考が直ぐ移る。
 昨晩《ゆうべ》の座敷の樣子が、再《また》鮮かに私の目に浮んだ。然うだ、菊池君の住んで居る世界と、私達の住んで居る世界との間には、餘程の間隔がある。「ウワッハハ。」と笑つたり、「私もそれなら至極同感ですな。」と云つたり、立つて盃を持つて來たりする時は、アノ人が自分の世界から態々出掛けて來て、私達の世界へ一寸入れて貰はうとするのだが、生憎唯人の目を向けさせるだけで、一向|效力《きゝめ》が無い。菊池君は矢張、唯一人自分の世界に居て、胡坐《あぐら》をかいた膝頭を、兩手で攫んで、凝然《ぢつ》として居る人だ。……………
 ト、今度は、菊池君の顏を嘗て何處かで見た事がある樣な氣がした。確かに見たと、誰やら耳の中で囁く。盛岡――の近所で私は生れた――の、内丸の大逵《おほどほり》がパッと目に浮ぶ。中學の門と斜に向ひ合つて、一軒の理髮床があつたが、其前で何日かしら菊池君を見た……否、アレは市役所の兵事係とか云ふ、同じ級《クラス》の友人のお父親《やぢ》の鬚だつたと氣がつく。其頃私の姉の家では下宿屋をして居たが、其家に泊つて居た鬚……違ふ、アノ鬚なら氣仙《けせん》郡から來た大工だと云つて、二ケ月も遊んで喰逃して北海道へ來た筈だ。ト、以前私の居た小樽の新聞社の、盛岡生れだと云つた職工長の立派な髭[#「髭」は底本では「考」]が腦《あたま》に浮ぶ。若しかすると、菊池君は何時か私の生れた村の、アノ白澤屋とか云ふ木賃宿の縁側に、胡坐《あぐら》をかいて居た事がなかつたらうかと考へたが、これも甚だ不正確なので、ハテ、何處だつたかと、氣が少し苛々《いら/\》して來て、東京ぢやなかつたらうかと、無理な方へ飛ぶ。東京と言へば、直ぐ須田町――東京中の電車と人が四方から崩れる樣に集つて來る須田町を頭腦に描くが、アノ雜沓の中で、菊池君が電車から降りる……否、乘る所を、私は餘程遠くからチラリと後姿を……無理だ、無理だ、電車と菊池君を密接《くつつ》けるのは無理だ。……
『モウ起きなさいよ、十一時が打《ぶ》つたから。那※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《あんな》に寢てて、貴方何考へてるだべさ。』
と、取つて投げる樣な、癇高い聲で云つて、お芳
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