が入つて來た。ハッとすると、血が頭からスーッと下つて行く樣な、夢から覺めた樣な氣がして、返事もせず、眞面目な顏をして默つて居ると、お芳も存外眞面目な顏をして、十能の火を火鉢に移す。指の太い、皹《ひゞ》だらけの、赤黒い不恰好な手が、忙がしさうに、細い眞鍮の火箸を動す。半巾《ハンカチ》を欲しがつてる癖に……と考へると、私は其手巾を蒲團の中で、胸の上にシッカリ握つてる事に氣がついた。ト、急に之をお芳に呉れるのが惜しくなつて來たので、對手にそれを云ひ出す機會を與へまいと、寢返りを打たうとしたが、怎したものか、此瞬間に、お芳の目元が菊池に酷《よく》似てると思つた。不思議だナと考へて、半分※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]しかけた頭を一寸戻して、再《また》お芳の目を見たが、モウ似て居ない。似て居る筈が無いサと胸の中で云つて、思ひ切つて寢返りを打つ。
『私の顏など見たくもなかべさ。ねえ、橘さん。』
『何を云ふんだい。』
と私は何氣なく云つたが、ハハア、此女が、存外眞面目な顏をしてる哩《わい》と思つたのは、ヤレ/\、これでも一種の姿態《しな》を作つて見せる積りだつたかと氣が附くと、私は吹出したくなつて來た。
『フン』
とお芳が云ふ。
私は、顏を伏臥《うつぶ》す位にして、呼吸《いき》を殺して笑つて居ると、お芳は火を移して了つて、炭をついで、雜巾で火鉢の縁を拭いている樣だつたが、軈て鐵瓶の蓋を取つて見る樣な音がする、茶器に觸る音がする。
『喉が渇いて渇いて、死にそだてからに、湯は飮まねえで何|考《かんが》えてるだかな。』
と、獨語《ひとりごと》の樣に云つて、出て行つて了つた。
四
社長の大川氏も、理事の須藤氏も、平生「毎日」の如きは眼中に無い樣な事を云つて居て、私が初めて着いた時も、喜見《きけん》とか云ふ、土地で一番の料理屋に伴《つ》れて行かれて、「毎日」が例令《たとへ》甚※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《どんな》事で此方に戈《ほこ》を向けるにしても、自體《てんで》對手にせぬと云つた樣な態度で、唯君自身の思ふ通りに新聞を拵へて呉れれば可い。「日報」の如く既に確實な基礎を作つた新聞は、何も其日暮しの心配をするには當らぬと云ふ意味の事を懇々と説き聞かされた。高木主筆は少し之と違つて居て、流石は創業の日から七年の間、
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