気持になったこともなかった。「僕も口語詩を作る」といったようなことは幾度もいった。しかしそういう時は、「もし詩を作るなら」という前提を心に置いた時か、でなくば口語詩に対して極端な反感を抱いている人に逢った時かであった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
その間に、私は四五百首の短歌を作った。短歌! あの短歌を作るということは、いうまでもなく叙上の心持と齟齬《そご》している。
しかしそれにはまたそれ相応の理由があった。私は小説を書きたかった。否、書くつもりであった。また実際書いてもみた。そうしてついに書けなかった。その時、ちょうど夫婦|喧嘩《げんか》をして妻に敗けた夫が、理由もなく子供を叱《しか》ったり虐《いじ》めたりするような一種の快感を、私は勝手気儘《かってきまま》に短歌という一つの詩形を虐使することに発見した。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
やがて、一年間の苦しい努力のまったく空《むな》しかったことを認めねばならぬ日が来た。
自分で自分を自殺しうる男とはどうしても信じかねながら、もし万一死ぬことができたなら……というようなことを考えて、あの森川町の下宿屋の一室で、友人の剃刀《かみそり》を持ってきて夜半ひそかに幾度となく胸にあててみた……ような日が二月も三月も続いた。
そうしてるうちに、一時脱れていた重い責任が、否応《いやおう》なしにふたたび私の肩に懸《かか》ってきた。
いろいろの事件が相ついで起った。
「ついにドン底に落ちた」こういう言葉を心の底からいわねばならぬようなことになった。
と同時に、ふと、今まで笑っていたような事柄が、すべて、きゅうに、笑うことができなくなったような心持になった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
そうしてこの現在の心持は、新らしい詩の真の精神を、初めて私に味わせた。
「食《くら》うべき詩」とは電車の車内広告でよく見た「食うべきビール」という言葉から思いついて、かりに名づけたまでである。
謂《い》う心は、両足を地面《じべた》に喰っつけていて歌う詩ということである。実人生と何らの間隔なき心持をもって歌う詩ということである。珍味ないしはご馳走ではなく、我々の日常の食事の香の物のごとく、しかく我々に「必要」な詩ということである。――こういうことは詩を既定のある地位から引下すことであるかもし
前へ
次へ
全10ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング