「目+爭」、第3水準1−88−85]つた目は今、數秒の前千古の英傑の立ち止つたと思うた其同じ處に、悄然として塵塚の痩犬の如き一人物の立つて居るのを見つめて居るのだ。實に天下の奇蹟である。いかなる英傑でも死んだ跡には唯骸骨を殘すのみだといふ。シテ見れば、今自分の前に立つてゐるのは、或はナポレオンの骸骨であるのかも知れない。
 よしや骸骨であるにしても、これは又サテ/\見すぼらしい骸骨である哩《わい》。身長五尺の上を出る事正に零寸零分、埃と垢で縞目も見えぬも木綿の袷を着て、帶にして居るのは巾狹き牛皮の胴締、裾からは白い小倉の洋袴《ズボン》の太いのが七八寸も出て居る。足袋は無論|穿《は》て居ない。髮は二寸も延びて、さながら丹波栗の毬《いが》を泥濘路《ぬかるみ》にころがしたやう。目は? 成程獨眼龍だ。然しヲートルローで失つたのでは無論ない。恐らく生來《うまれつき》であらう。左の方が前世に死んだ時の儘で堅く眠つて居る。右だつて完全な目ではない。何だか普通の人とは黒玉の置き所が少々違つて居るやうだ。鼻は先づ無難、口は少しく左に歪《ゆが》んで居る。そして頬が薄くて、血色が極めて惡い。これらの道具立の中に、獨り威張つて見える廣い額には、少なからず汗の玉が光つて居る、涼しさうにもない。その筈だ、六月三十日に袷を着ての旅人だもの。忠太がヒョットコの眞似をして見せたのも、「アンナ奴」と馬鈴薯の叫んだのも、自身の顏の見えぬ故《せゐ》でもあらうが、然し左程當を失して居ない樣にも思はれる。
 斯う自分の感じたのは無論一轉瞬の間であつた。たとへ一轉瞬の間と雖ども、かくの如きさもしい事を、此の日本一の代用教員たる自分の胸に感じたのは、實に慚愧に堪へぬ惡徳であつたと、自分の精神に覺醒の鞭撻を與へて呉れたのは、この奇人の歪める口から迸《ほとば》しつた第一聲である。
『僕は石本俊吉と申します。』
 あゝ、聲だけは慥かにナポレオンにしても恥かしくない聲だ。この身體の何處に貯へて置くかと怪まれる許り立派な、美しい、堂々たる、廣い胸の底から滯りなく出る樣な、男らしい凛《りん》とした聲である。一葉の牡蠣《かき》の殼にも、詩人が聞けば、遠き海洋《わだつみ》の劫初の轟きが籠つて居るといふ。さらば此男も、身體こそ無造作に刻まれた肉魂の一斷片に過ぎぬが、人生の大殿堂を根柢から搖り動かして轟き渡る一撞萬聲の鯨鐘の聲を深く這裏《このうら》に藏《かく》して居るのかも知れない。若しさうとすると、自分を慚愧すべき一瞬の惡徳から救ひ出したのは、此影うすきナポレオンの骸骨ではなくて、老ゆる事なき人生至奧の鐘の聲の事になる。さうだ、慥かにさうだ。この時自分は、その永遠無窮の聲によつて人生の大道に覺醒した。そして、畏友朱雲から千古の名文によつて紹介された石本俊吉君に、初對面の挨拶を成すべき場合に立つて居ると覺悟をきめたのである。
『僕が新田です。初めて。』
『初めて。』
と互に一|揖《いふ》[#ルビの「いふ」は底本では「しふ」]する。
『天野君のお手紙はどうも有難う。』
『どうしまして。』
 斯う言つて居る間に、自分は不圖或一種の痛快を感じた。それは、隨分手酷い反抗のあつたに不拘《かゝはらず》、飄然として風の如く此職員室に立ち現はれた人物が、五尺二寸と相場の決つた平凡人でなくて、實に優秀なる異彩を放つ所の奇男子であるといふ事だ。で、自分は、手づから一脚の椅子を石本に勸めて置いて、サテ屹となつて四邊《あたり》を見た。女教師は何と感じてか凝然《ぢつ》として此新來の客の後姿に見入つて居る。他の三人の顏色は云はずとも知れた事。自分は疑ひもなく征服者の地位に立つて居る。
『一寸御紹介します。この方は、私の兄とも思つて居る人からの紹介状を持つて、遙々訪ねて下すつた石本俊吉君です。』
 何れも無言。それが愈々自分に痛快に思はれた。馬鈴薯は『チョッ』と舌打して自分を一|睨《げい》したが、矢張一言もなく、すぐ又石本を睨《ね》め据ゑる。恐らく餘程石本の異彩ある態度に辟易してるのであらう。石本も亦敢て頭を下げなんだ。そして、如何に片目の彼にでも直ぐ解る筈の此不快なる光景に對して、殆んど無感覺な位極めて平氣である。どうも面白い。餘程戰場の數を踏んだ男に違ひない。荒れ狂ふ獅子の前に推し出しても、今朝喰つた飯の何杯であつたかを忘れずに居る位の勇氣と沈着をば持つて居さうにも思はれる。
 得意の微笑を以て自分は席に復した。石本も腰を下した。二人の目が空中に突當る。此時自分は、對手の右の目が一種拔群の眼球を備へて居る事を發見した。無論頭腦の敏活な人、智の活力の盛んな人の目ではない。が兎に角拔群な眼球である丈けは認められる。そして其拔群な眼球が、自分を見る事決して初對面の人の如くでなく、親しげに、なつかしげに、十年の友の如く心置きな
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