享《う》くる人が、温厚篤實にして萬《よろづ》中庸を尚《たつと》ぶ世上の士君子、例へば我校長田島氏の如きであつたら、恐らく見もせぬうちから玄關に立つ人を前門の虎と心得て、いざ狼の立塞がぬ間にと、草履《ざうり》片足で裏門から逃げ出さぬとも限らない。然も此一封が、嘗てこのS――村に呱々の聲を擧げ、この學校――尤も其頃は校舍も今の半分しか無く、教師も唯の一人、無論高等科設置以前の見すぼらしい單級學校ではあつたが、――で、矢張り穩健で中正で無愛憎《ぶあいそう》で、規則と順序と年末の賞與金と文部省と妻君とを、此上なく尊敬する一教育者の手から、聖代の初等教育を授けられた日本國民の一人、當年二十七歳の天野大助が書いたのだと知つたならば、抑々何の辭を以て其驚愕の意を發表するであらうか。實際これでは紹介状ドコロの話ではない。命令だ、しかも隨分亂暴な命令だ、見ず知らずの獨眼龍に出來る限りの助力をせよといふのだもの。然し乍ら、この驚くべき一文を胸轟かせて讀み終つた自分は、決して左樣は感じなんだ。敢て問ふ、世上滔々たる浮華虚禮の影が、此の手紙の隅に微塵たりとも隱れて居るか。※[#始め二重括弧、1−2−54]一金三兩也。馬代。くすかくさぬか、これどうぢや。くすといふならそれでよし、くさぬにつけてはたゞおかぬ。うぬがうでには骨がある。※[#終わり二重括弧、1−2−55]といふ、昔さる自然生《じねんじよ》の三吉が書いた馬代の請求の附状《つけじやう》が、果して大儒《たいじゆ》新井白石の言の如く千古の名文であるならば、簡にしてよく其要を得た我が畏友朱雲の紹介状も亦、正に千古の名文と謂《いひ》つべしである。のみならず、斯くの如き手紙を平氣で書き、亦平氣で讀むという彼我《ひが》二人の間は、眞に同心一體、肝膽相照すといふ趣きの交情でなくてはならぬ。一切の枝葉を掃《はら》ひ、一切の被服《ひふく》を脱《ぬ》ぎ、六尺|似神《じしん》の赤裸々を提げて、平然として目ざす城門に肉薄するのが乃《すなは》ち此手紙である。此平然たる所には、實に乾坤《けんこん》に充滿する無限の信用と友情とが溢れて居るのだ。自分は僅か三秒か四秒の間にこの手紙を讀んだ。そして此瞬間に、躍々たる畏友の面目を感じ、其温かき信用と友情の囁きを聞いた。
『よろしい。此室《こゝ》へお通し申して呉れ。』
『乞食をですかツ』
と校長が怒鳴つた。
『何だつてそれア餘りですよ。新田さん。學校の職員室へ乞食なんぞを。』
斯う叫んだのは、窓の硝子もピリ/\とする程|甲高《かんだか》い、幾億劫來聲を出した事のない毛蟲共が千萬疋もウヂャウヂャと集まつて雨乞の祈祷でもするかの樣な、何とも云へぬ厭な聲である。舌が無いかと思はれたマダム馬鈴薯の、突然噴火した第一聲の物凄さ。
小使忠太の團栗眼はクル/\/\と三※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]轉した。度を失つてまだ動かない。そこで一つ威嚇の必要がある。
『お通し申せ。』
と自分は一喝を喰はした。忠太はアタフタと出て行つた、が、早速《すぐ》と復引き返して來た。後には一人物が隨つて居る。多分既に草鞋を解《と》いて、玄關に上つて居つたのであらう。
『新田さん、貴君はそれで可いのですか。よ、新田さん、貴君一人の學校ではありませんよ。人ツ、代用のクセに何だと思つてるだらう。マア御覽なさい。アンナ奴。』
馬鈴薯が頻りにわめく。自分は振向きもしない。そして、今しも忠太の背から現はれむとする、「アンナ奴」と呼ばれたる音吐朗々のナポレオンに、渾身の注意を向けた。朱雲の手紙に「獨眼龍ダヨ」と頭註がついてあつたが、自分はたゞ單に、ヲートルローの大戰で誤つて一眼を失つたのだらう位に考へて、敢て其爲めに千古の眞骨頭ナポレオン・ボナパルトの颯爽たる威風が、一毫たりとも損ぜられたものとは信じなんだのである。或は却つて一段の秋霜烈日の嚴を増したのではないかと思つた。
忠太は體を横に開いて、ヒョコリと頭を下げる。や否や、逃ぐるが如く出て行つてしまつた。
天が下には隱家《かくれが》もなくなつて、今|現身《げんしん》の英傑は我が目前咫尺の處に突兀として立ち給うたのである。自分も立ち上つた。
此時、自分は俄かに驚いて叫ばんとした。あはれ千載萬載一遇の此月此日此時、自分の双眼が突如として物の用に立たなくなつたのではないか。これ程劇甚な不幸は、またとこの世にあるべきでない。自分は力の限り二三度|瞬《またゝ》いて見て、そして復《また》力の限り目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つた。然しダメである。ヲートルローの大戰に誤つて流彈の爲めに一眼を失なひ、却つて一段秋霜烈日の嚴を加へた筈のナポレオン・ボナパルトは、既に長《とこ》しなへに新田耕助の仰ぎ見るべからざるものとなつたのである。自分の大きく※[#
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