て、ただ一人垢染みた白地の單衣を着た、苦學生らしい若い男の隅の方に腰掛けてゐるのを見出した。「秋だ!」私は思つた。――實際、其の男は私が其の日出會つた白地の單衣を着たただ一人の男だつた。私はそれとなく、此の四、五日の間に、東京中の家といふ家で、申し合せたやうに、夏の着物を疊んで藏つて了つたことを感じた。
其の日私は、何の事ともなく自分の爲事を早く切り上げて、そして早々《さつさ》と歸つて來た。恰度方々の役所の退ける時刻だつた。
『貴方は龜山さんぢやありませんか?』
訛りのある、寂びた聲が電車の中でさう言つた。
『ああ、△△君でしたか!』私も言つた。彼は私の舊友の一人だつた。然も餘り好まない舊友の一人だつた。然し其の時、私は少しも昔の感情を思出さなかつた。そしてただ何がなしに懷しかつた。
『三、四年振りでしたねえ。矢つ張りずつと彼時《あれ》から東京でしたか?』私は言つた。
『は。ずつと此方《こつち》に。遂々《とう/\》腰辨になつて了ひました。』
恰度私の隣の席が空いたので、二人は竝んで腰を掛けた。平たい、表情の無い顏、厚い脣、黒い毛蟲のやうな眉……其れ等の一々が少しも昔と違つてゐない
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