ふと彼《あ》の通りだ。世の中にや隨分見え透いた機嫌の取り方をする者もあるが、あんなのは滅多にないよ。他《はた》で見てゐて唾を引つ掛けたくなる。それに、暇さへあれば我々の間を廻つて歩いて、彼の通り幇間染みた事を言ふ。かと思ふと又、機會さへあれば例の自畫自贊だ。でなければ何さ、それ、「我々近代人」と來るさ。ははは。一體彼奴は、今の文學者連中と交際してるのが、餘つ程得意なんだね。そして其奴等の口眞似をして一人で悦《えつ》に入つてるんだ、淫賣婦が馴染客に情死を迫られて、迯げ出すところを後から斬り附けられた記事へ、個人意識の強い近代的女性の標本だと書いた時は、僕も思はず噴き出したね。ね?
 ところがだ、考へてみると、それが皆僕の前提を肯定する材料になる。無邪氣でなくて誰があんな眞似が出來る? 我々自身を省るが可い。我々だつて、何時でも逢坂を糞味噌に貶《けな》してゐるが、底の底を割つてみれば彼奴と同じぢやないか? 下の者には何も遠慮をする必要がない。上の者には本意、不本意に拘らず、多少の敬意を表して置く。これあ人情だ。同時に處世の常則だよ。同僚にだつてさうだ、誰だつて惡く云はれたくはないさ。又自分
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