なんかも、金と時間《ひま》さへあつたら、早速何處かへ行くね。成るべく人のゐない處へ行くね。だが、自然といふものには、批評が無いと同時に餘り無關心過ぎるところが有る。我々が行つたつて些《ちつ》とも關《かま》つちやくれない。だから僕みたいな者は、海や、山へ行くと、直ぐもう飽きちやつて、爲る事に事を缺いて自分で自分の批評を始めるんだ。其處へ行くと活動寫眞は可いね。[#「可いね。」は底本では「可いね」]――僕は今迄、新聞記者の生活ほど時間の經つに早いものは無いと思つてゐたら、活動寫眞の方はまだ早い。要らないところはぐんぐん飛ばして行くしね。それに何だよ、活動寫眞で路を歩いてる人を見ると、普通に歩いてるのが僕等の駈足位の早さだよ。駈けるところなんか滅法早い。僕は昨夜《ゆうべ》自動車競走の寫眞を見たが、向ふの高い處から一直線の坂を、自動車が砂煙を揚げて鐵砲玉のやうに飛んで來るところは好かつたねえ。身體がぞくぞくした。あんなのを見ると些とも心に隙が無い。批評の無い場所にゐるばかりでなく、自分にも批評なんぞする餘裕が無くなる。僕は此の頃活動寫眞を見てるやうな氣持で一生を送りたいと思ふなあ。』
『自動車を買つて乘り廻すさ。』安井は無雜作に言つた。

      六

 松永に別れた夏――去年の夏は其のやうにして過ぎた。高橋の言草では無いが、我々新聞記者の生活ほど慌しく、急がしいものは無い。誰かも言つた事だが、我々は常に一般人より一日づつ早く年を老《と》つてゐる。人が今日といふところをば昨日と書く。明日といふべきところを今日と言ふ。朝起きて先づ我々の頭腦《あたま》に上る問題は、如何に明日の新聞を作るべきかといふ事であつて、如何に其の一日を完成すべきかといふ事では無い。我々の生活は實にただ明日の準備である。そして決してそれ以上では無い。日が暮れて爲事の終つた時、我々にはもう何も殘つてゐない。我々の取扱ふ事件は其の日、其の日に起つて來る事件で有つて、決して前から豫期し、乃至は順序を立てて置くことを許さない。――春がさうして過ぎ、夏がさうして過ぎる。一年の間、我々は只人より一日先、一日先と駈けてゐるのだ。
 さういふ私の身體にも、秋風の快さはそれとなく沁みた。もう町々の氷屋が徐々《そろ/\》店替をする頃だつた。私にも新らしい脊廣が出來た。或朝、私は平生より少し早目に家を出て電車に乘つた。そして、ただ一人垢染みた白地の單衣を着た、苦學生らしい若い男の隅の方に腰掛けてゐるのを見出した。「秋だ!」私は思つた。――實際、其の男は私が其の日出會つた白地の單衣を着たただ一人の男だつた。私はそれとなく、此の四、五日の間に、東京中の家といふ家で、申し合せたやうに、夏の着物を疊んで藏つて了つたことを感じた。
 其の日私は、何の事ともなく自分の爲事を早く切り上げて、そして早々《さつさ》と歸つて來た。恰度方々の役所の退ける時刻だつた。
『貴方は龜山さんぢやありませんか?』
 訛りのある、寂びた聲が電車の中でさう言つた。
『ああ、△△君でしたか!』私も言つた。彼は私の舊友の一人だつた。然も餘り好まない舊友の一人だつた。然し其の時、私は少しも昔の感情を思出さなかつた。そしてただ何がなしに懷しかつた。
『三、四年振りでしたねえ。矢つ張りずつと彼時《あれ》から東京でしたか?』私は言つた。
『は。ずつと此方《こつち》に。遂々《とう/\》腰辨になつて了ひました。』
 恰度私の隣の席が空いたので、二人は竝んで腰を掛けた。平たい、表情の無い顏、厚い脣、黒い毛蟲のやうな眉……其れ等の一々が少しも昔と違つてゐないのを、私は何故か嬉しいやうに見た。そればかりではない。彼の白襯衣《ホワイト・シャツ》の汚れ目も、また周圍《あたり》構はぬ高聲で話しかける地方人の癖をも、私は決して不快に思はなかつた。二人は思出す儘に四、五人の舊友に就いて語つた。そして彼は、長く逢はずに、且つ私の方では思出すこともなく過してゐたに拘らず、よく私の近況を知つてゐた。
『先月でしたか、靜岡の製紙工場を視察にいらしたやうでしたね?』そのやうに彼は言つた。
『ええ。』私は輕く笑つた。彼はT――新聞の讀者だつた。
 家へ歸つて來ると、何の理由もなく私は机の邊を片附けた。そして座蒲團から、縁先に吊した日避けの簾まで、すべて夏の物を藏はせて了つた。嬉しいやうな、新しい氣持があつた。さうして置いて、私は其の夜、新橋で別れて以來初めての手紙を、病友松永の爲に書いた。



底本:「石川啄木作品集 第三巻」昭和出版社
   1970(昭和45)年11月20日発行
※底本の表記に疑問がある箇所は、「現代日本文学全集 第四十五篇」改造社、1928(昭和3)年7月10日発行を参照して正し、その箇所に注記を加えました。
※「廻」と「※[#「廴+囘」
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