つた。
 或日私はまた高橋に廊下へ連れ出された。應接間は二つとも塞がつてゐたので、二人は廊下の突當りの不用な椅子などを積み重ねた、薄暗い處まで行つて話した。其處には晝ながら一疋の蚊がゐて、うるさく私の顏に纒つた。
『おい、松永は到頭咯血しちやつた。』さう彼は言つた。
 醫者が患者の縁邊《みより》の者を別室に呼んで話す時のやうな、事務的な調子だつた。
『遂々《とう/\》やつたか?』
 言つて了つてから、私は、今我々は一人の友人の死期の近づいたことを語つてゐるのだと思つた。そして自分の言葉にも、對手の言葉にも何の感情の現れてゐないのを不思議に感じた。
 それから彼は、松永を郷里へ還すべきか、否かに就いて、松永一家の事情を詳しく語つた。不幸な畫工には、父も財産も無かつたが、郷里には素封家の一人に數へられる伯父と、小さいながら病院を開いてゐる姉婿とがあつた。彼の母は早くから郷里へ歸るといふ意見だつたが、病人は何うしても東京を去る氣が無く、去るにしても、房州か、鎌倉、茅ヶ崎邊へ行つて一年も保養したいやうな事ばかり言つてゐたといふ。
『それがね。』と高橋は言つた。『僕は松永の看護をしてゐて色々貴い知識を得たが、田舍で暮らした老人を東京みたないな處へ連れて來るのは、一寸考へると幸福なやうにも思はれるが、さうぢやないね。寧ろ悲慘だね。知つてる人は無し、風俗が變つてるし、それに第一言葉が違つてる。若い者なら直ぐ直つちまふが、老人はさうは行かない。松永のお母さんなんか、もう來てから足掛四年になるんださうだが、まだ彼の通り藝州辯まる出しだらう? 一寸町へ買物に行くにまで、笑はれまいか、笑はれまいかつておど/\してゐる。交際といふものは無くね。都會の壓迫を一人で脊負つて、毎日、毎日自分等の時代と子供の時代との相違を痛切に意識してるんだね。』
『そんな事も有るだらうね。僕の母なんかさうでも無いやうだが。』
『それは人にもよるさ。――それに何だね、松永君は豫想外に孤獨な人だね。彼《あ》あまでとは思はなかつたが、僕が斯うして毎日のやうに行つてるのに、君達の外には誰も見舞に來やしないよ。氣の毒な位だ。畫の方の友達だつて一人や、二人は有つても可《よ》ささうなもんだが、殆ど無いと言つても可い。境遇が然らしめたのだらうが、好んで交際を絶つてゐたらしい傾きも有るね。彼《あ》の子と彼《あ》の御母さんと――齡
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