『ぢや無からうかといふだけの話さ。』
『僕は社會主義者では無い。』と高橋は言ひ澁るやうに言ひ出した。『――然し社會主義者で無いといふのは、必ずしも社會主義に全然反對だといふことでは無い。誰でも仔細に調べて見ると、多少は社會主義的な分子を有つてるもんだよ。彼のビスマァクでさへ社會主義の要求の幾分を内政の方面では採用してるからね。――と言ふのは、社會主義のセオリイがそれだけ普遍的な眞理を含んでゐるといふことよりも、寧ろ、社會的動物たる人間が、何れだけ其の共同生活に由つて下らない心配をせねばならんかといふことを證據立ててゐるんだ。』
『よし。そんなら君の主義は何主義だ?』
『僕には主義なんて言ふべきものは無い。』
『無い筈は無い。――』
『困るなあ、世の中といふものは。』高橋はまた寢轉んだ。『――言へば言つたで誤つて傳へるし、言はなければ言はんで勝手に人を忖度する。君等にまで誤解されちや詰らんから、それぢや言ふよ。』さう言つて起きて、
『僕には實際主義なんて名づくべきものは無い。昔は有つたかも知れないが今は無い。これは事實だよ。尤も僕だつて或考へは有つてゐる。僕はそれを先刻結論といつたが、假に君の言ひ方に從つて野心と言つても可い。然し其の僕の野心は、要するに野心といふに足らん野心なんだ。そんなに金も欲しくないしね。地位や名譽だつてさうだ。そんな者は有つても無くても同じ者だよ。』
『世の中を救ふとでも言ふのか?』
『救ふ? 僕は誇大妄想狂ぢや無いよ。――僕の野心は、僕等が死んで、僕等の子供が死んで、僕等の孫の時代になつて、それも大分年を取つた頃に初めて實現される奴なんだよ。いくら僕等が焦心《あせ》つたつてそれより早くはなりやしない。可いかね? そして假令それが實現されたところで、僕一個人に取つては何の増減も無いんだ。何の増減も無い! 僕はよくそれを知つてる。だから僕は、僕の野心を實現する爲めに何等の手段も方法も採つたことはないんだ。今の話の體操教師のやうに、自分で機會を作り出して、其の機會を極力利用するなんてことは、僕にはとても出來ない。出來るか、出來ないかは別として、從頭《てんで》そんな氣も起つて來ない。起らなくても亦可いんだよ。時代の推移といふものは君、存外急速なもんだよ。色んな事件が毎日、毎日發生するね。其の色んな事件が、人間の社會では何んな事件だつて單獨に發生す
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