だ。下らない駄洒落《だじやれ》を言ふやうだが、人は吃驚すると惡口を吐きたがるものと見える。「こん畜生」と言はなくとも、白なら白、ポチならポチでいゝではないか――若し必ず何とか言はなければならぬのならば。
○土岐哀果君が十一月の「創作」に發表した三十何首の歌は、この人がこれまで人の褒貶を度外に置いて一人で開拓して來た新しい畑に、漸く樂しい秋の近づいて來てゐることを思はせるものであつた。その中に、
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燒あとの煉瓦の上に
syoben をすればしみじみ
秋の氣がする
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といふ一首があつた。好い歌だと私は思つた。(小便といふ言葉だけを態々羅馬字で書いたのは、作者の意味では多分この言葉を在來の漢字で書いた時に伴つて來る惡い連想《れんさう》を拒む爲であらうが、私はそんな事をする必要はあるまいと思ふ。)
○さうすると今月になつてから、私は友人の一人から、或雜誌が特にこの歌を引いて土岐君の歌風を罵つてゐるといふ事を聞いた。私は意外に思つた。勿論この歌が同じ作者の歌の中で最も優れた歌といふのではないが、然し何度讀み返しても惡い歌にはならない。評者は何故この鋭い實感を承認することが出來なかつたであらうか。さう考へた時、私は前に言つた「こん畜生」の場合を思ひ合せぬ譯に行かなかつた。評者は屹度歌といふものに就いて或狹い既成概念《きせいがいねん》を有つてる人に違ひない。自ら新しい歌の鑑賞家を以て任じてゐ乍ら、何時となく歌は斯ういふもの、斯くあるべきものといふ保守的な概念を形成《かたづく》つてさうしてそれに捉はれてゐる人に違ひない。其處へ生垣の隙間から飼犬の飛び出したやうに、小便といふ言葉が不意に飛び出して來て、その保守的な、苟守的《こうあんてき》な既成概念の袖にむづと噛み着いたのだ。然し飼犬が主人の歸りを喜んで飛び着くに何の不思議もない如く、我々の平生使つてゐる言葉が我々の歌に入つて來たとても何も吃驚《びつくり》するには當らないではないか。
○私の「やとばかり桂首相に手とられし夢みて覺めぬ秋の夜の二時」といふ歌も或雜誌で土岐君の小便の歌と同じ運命に會つた。尤もこの歌は、同じく實感の基礎を有しながら桂首相を夢に見るといふ極稀れなる事實を内容に取入れてあるだけに、言換へれば萬人の同感を引くべく餘りに限定された内容を歌つてあるだけに、小便の歌ほど歌とし
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