かしそれは仕方がない。身体《からだ》一つならどうでも可いが、机もあるし本もある。あんな荷物をどっさり持って、毎日毎日引越して歩かなくちゃならないとなったら、それこそ苦痛じゃないか。
A 飯のたんびに外に出なくちゃならないというのと同じだ。
B 飯を食いに行くには荷物はない。身体だけで済むよ。食いたいなあと思った時、ひょいと立って帽子を冠《かぶ》って出掛けるだけだ。財布さえ忘れなけや可い。ひと足ひと足うまい物に近づいて行くって気持は実に可いね。
A ひと足ひと足新しい眠りに近づいて行く気持はどうだね。ああ眠くなったと思った時、てくてく寝床を探しに出かけるんだ。昨夜《ゆうべ》は隣の室で女の泣くのを聞きながら眠ったっけが、今夜は何を聞いて眠るんだろうと思いながら行くんだ。初めての宿屋じゃ此方《こっち》の誰だかをちっとも知らない。知った者の一人もいない家の、行燈《あんどん》か何かついた奥まった室に、やわらかな夜具の中に緩《ゆっ》くり身体を延ばして安らかな眠りを待ってる気持はどうだね。
B それあ可いさ。君もなかなか話せる。
A 可いだろう。毎晩毎晩そうして新しい寝床で新しい夢を結ぶんだ。(間)本も机も棄てっちまうさ。何もいらない。本を読んだってどうもならんじゃないか。
B ますます話せる。しかしそれあ話だけだ。初めのうちはそれで可いかも知れないが、しまいにはきっとおっくうになる。やっぱり何処かに落付いてしまうよ。
A 飯を食いに出かけるのだってそうだよ。見給え、二日|経《た》つと君はまた何処かの下宿にころがり込むから。
B ふむ。おれは細君を持つまでは今の通りやるよ。きっとやってみせるよ。
A 細君を持つまでか。可哀想に。(間)しかし羨《うらや》ましいね君の今のやり方は、実はずっと前からのおれの理想だよ。もう三年からになる。
B そうだろう。おれはどうも初め思いたった時、君のやりそうなこったと思った。
A 今でもやりたいと思ってる。たった一月でも可い。
B どうだ、おれん処へ来て一緒にやらないか。可いぜ。そして飽きたら以前《もと》に帰るさ。
A しかし厭《いや》だね。
B 何故。おれと一緒が厭なら一人でやっても可いじゃないか。
A 一緒でも一緒でなくても同じことだ。君は今それを始めたばかりで大いに満足してるね。僕もそうに違いない。やっぱり初めのうちは日に五|度《たび》も食事
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