にき
おのづから
悪酒《あくしゆ》の酔《ゑ》ひにたふるるまでも

死ぬばかり我が酔《ゑ》ふをまちて
いろいろの
かなしきことを囁《ささや》きし人

いかにせしと言へば
あをじろき酔《ゑ》ひざめの
面《おもて》に強《し》ひて笑《ゑ》みをつくりき

かなしきは
かの白玉《しらたま》のごとくなる腕に残せし
キスの痕《あと》かな

酔《ゑ》ひてわがうつむく時も
水ほしと眼《め》ひらく時も
呼びし名なりけり

火をしたふ虫のごとくに
ともしびの明るき家《いへ》に
かよひ慣《な》れにき

きしきしと寒さに踏めば板《いた》軋《きし》む
かへりの廊下の
不意のくちづけ

その膝《ひざ》に枕《まくら》しつつも
我がこころ
思ひしはみな我のことなり

さらさらと氷の屑《くづ》が
波に鳴る
磯の月夜のゆきかへりかな

死にしとかこのごろ聞きぬ
恋がたき
才《さい》あまりある男なりしが

十年《ととせ》まへに作りしといふ漢詩《からうた》を
酔《ゑ》へば唱《とな》へき
旅に老《お》いし友

吸ふごとに
鼻がぴたりと凍《こほ》りつく
寒き空気を吸ひたくなりぬ

波もなき二月の湾《わん》に
白塗《しろぬり》の
外国船が低く浮かべり

三味線《さみせん》の絃《いと》のきれしを
火事のごと騒ぐ子ありき
大雪の夜《よ》に

神のごと
遠く姿をあらはせる
阿寒《あかん》の山の雪のあけぼの

郷里《くに》にゐて
身投げせしことありといふ
女の三味《さみ》にうたへるゆふべ

葡萄色《えびいろ》の
古き手帳にのこりたる
かの会合《あひびき》の時と処《ところ》かな

よごれたる足袋《たび》穿《は》く時の
気味《きみ》わるき思ひに似たる
思出《おもひで》もあり

わが室《へや》に女泣きしを
小説のなかの事かと
おもひ出《い》づる日

浪淘沙《らうたうさ》
ながくも声をふるはせて
うたふがごとき旅なりしかな

   二

いつなりけむ
夢にふと聴《き》きてうれしかりし
その声もあはれ長く聴かざり

頬《ほ》の寒き
流離《りうり》の旅の人として
路《みち》問《と》ふほどのこと言ひしのみ

さりげなく言ひし言葉は
さりげなく君も聴きつらむ
それだけのこと

ひややかに清き大理石《なめいし》に
春の日の静かに照るは
かかる思ひならむ

世の中の明るさのみを吸ふごとき
黒き瞳《ひとみ》の
今も目にあり

かの時に言ひそびれ
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