あたりまで垂れ、一段高い處に立つて、ピカ/\光る杖を揮りながら何事か予に命じた。何事を命ぜられたのかは解らない。その時誰だか側らにゐて「もう斯うなつたからには仕方がない。おとなしくお受けしたら可いだらう。」と言つた。それは何でも予の平生親しくしてゐる友人の一人だつたやうだが、誰であつたかは解らない。予はそれに答へなかつた。さうして熱い/\涙を流しながら、神樣と議論した。長い間議論した。その時神樣は、ぢつと腕組みをして予の言葉を聞いてゐたが、しまひには立つて來て、恰度小學校の時の先生のやうに、しやくり上げて理窟を捏ねる予の頭を撫でながら、「もうよし/\。」と言つてくれた。目のさめた時はグツシヨリと汗が出てゐた。さうして予が神樣に向つて何度も何度も繰返して言つた、「私の求むるものは合理的生活であります。たゞ理性のみひとり命令權を有する所の生活であります。」といふ言葉だけがハツキリと心に殘つてゐた。予は不思議な夢を見たものだと思ひながら、その言葉を胸の中で復習してみて、可笑しくもあり、悲しくもあつた。
 入院以來、殊に下腹に穴をあけて水をとつた以來、夢を見ることがさう多くはなくなつた。手術を受けた日の晩とその翌晩とは確かに一つも見なかつたやうだ。長い間無理矢理に片隅に推しつけられて苦しがつてゐた内臟も、その二晩だけは多少以前の領分を囘復して、手足を投げ出してグツスリと寢込んだものと見える。その後はまたチヨイ/\見るやうになつた。とある木深い山の上の寺で、背が三丈もあらうといふ灰色の大男共が、何人も/\代る/″\出て來て鐘を撞いた夢も見た。去年の秋に生れて間もなく死んだ子供の死骸を、郷里の寺の傍の凹地で見付けた夢も見た。見付けてさうして抱いて見ると、パツチリ目をあけて笑ひ出した。不思議な事には、男であつた筈の子供がその時女になつてゐた。「區役所には男と屆けた筈だし、何うしたら可いだらうか。」「さうですね。屆け直したら屹度罰金をとられるでせうね。」「仕方がないから今度また別に女が生れた事にして屆けようか。」予と妻とは凹地の底でかういふ相談をしてゐた。

     七

 つい二三日前の明方に見た夢こそ振つたものであつた。予はナポレオンであつた。繪や寫眞版でよく見るナポレオンの通りの服裝をして、白い馬に跨つた儘、この青山内科の受付の前へ引かれて來た。戰に敗けて捕虜になつた所らしかつた。「此處で馬を下《お》りて下さい。」と馬の口を取つて來た男が言つた。「いやだ。」と予は答へた。「下りないとお爲になりませんよ。」と男がまた言つた。予はその時、この板敷の廊下に拍車の音を立てゝ歩いたら氣持が可からうと思つた。さうして馬から飛び下りた。それから後のところは一寸不明である。やがて予はこの第五號室、(予は數日前に十八號室から移つたのだ。)の前の廊下に連れて來られた。と、扉を明けて朝日新聞の肥つた會計が出て來て、「今すぐ死刑をやりますから少し待つてゐて下さい。」と言ふ。「何處でやるんです。」と聞くと、「この突當りの室です。」と答へて扉《ドア》を閉めた。突當りの室では予即ちナポレオンの死刑の準備をしてゐると見えて、五六人の看護婦が忙がしく出つ入りつしてゐた。(それが皆名も顏も知つた看護婦だから面白い。)そのうちに看護婦が二人がゝりで一つの大きい金盥を持ち込むのが見えた。「あゝ、あれで俺の首を洗ふのだ。」と思ふと予は急に死ぬのがいやになつた。せめて五時間(何から割出したか解らない。)でも生き延びたいと思つた。で、傍らに立つてゐる男に、可成ナポレオンらしく聞えるやうな威嚴を以て、「俺は俺の死ぬ前に、俺の一生の意義を考へてみなければならん、何處か人のゐない室で考へたいから、お前これから受持の醫者へ行つて都合をきいて來てくれ。」と言つた。男は、「ハイ直ぐ歸つて來ますからお逃げになつてはいけませんよ。」と言つて、後を見い/\廊下を曲つて行つた。逃げるなら今だと思つて後先を見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]してゐると、運惡く朝日新聞の會計がまた扉を開けた。そこで予はテレ隱しに煙草をのまうと思つて袂を探したが、無い。無い道理、予は入院以來着てゐる袖の開いた寢卷を着てゐたのである。それから後は何うなつたか解らない。
 君、ナポレオンが死ぬのをいやがつたり、逃げ出さうと思つた所が、いかにも人間らしくて面白いではないか。

     終

 郁雨君足下。
 俄に來た熱が予の體内の元氣を燃した。醫者は予の一切の自由を取りあげた。「寢て居て動くな」「新聞を讀んぢやあいけない」と云ふ。もう彼是一週間になるが、まだ熱が下らない。かくて予のこの手紙は不意にしまひにならねばならなかつた。
 彼は馬鹿である。彼は平生多くの人と多くの事物とを輕蔑して居た。同時に自分自身をも少しも尊
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