がて容器に一杯になつた時、「これでいくらです。」と聞いた。「恰度一升です。」と醫師は靜かに答へた。
一人の雜使婦は手早くそれを別の容器に移した。濃黄色の液體はそれでもまだ流れ落ちた。さうして殆んどまた容器の半分位にまで達した時、予は予の腹がひとり手《で》に極めて緩漫な運動をして縮んでゆくのを見た。同時に予の頭の中にある温度が大急ぎで下に下りて來るやうに感じた。何かかう非常に遠い處から旅をして來たやうな氣分であつた。頭の中には次第に寒い風が吹き出した。「どうも餘り急に腹が減つたんで、少しやりきれなくなりました。」と予は言つた。言つてさうして自分の聲のいかにも力ない、情ない聲であつたことに氣がついた。そこで直ぐまた成るたけ太い聲を出して、「何か食ひたいやうだなあ。」と言つた。しかしその聲は先の聲よりも更に情ない聲であつた。四邊は俄かに暗く淋しくなつて行つた。目の前にゐる看護婦の白服が三十間も遠くにあるものゝやうに思はれた。「目まひがしますか?」といふ醫者の聲が遠くから聞えた。
後で聞けばその時の予の顏は死人のそれの如く蒼かつたそうである。しかし予は遂に全く知覺を失ふことが出來なかつた。トラカルを拔かれたことも知つてゐるし、頭と足を二人の女に持たれて、寢臺の上に眞直に寢かされたことも知つてゐる。赤酒を入れた飮乳器の細い口が仰向いた予の口に近づいた時、「そんな物はいりません。」と自分で拒んだことも知つてゐる。
この手術の疲勞は、予が生れてから經驗した疲勞のうちで最も深く且つ長い疲勞であつた。予は二時間か二時間半の間、自分の腹そのものが全く快くなつたかの如く安樂を感じて、ぢつと仰向に寢てゐた。さうして靜かに世間の悲しむべき横着といふ事を考へてゐた。
さうしてそれは、遂に予一人のみの事ではなかつたのである。
六
郁雨君足下
[#ここから3字下げ]
神樣と議論して泣きし
夢を見ぬ……
四日ばかりも前の朝なりし。
[#ここで字下げ終わり]
この歌は予がまだ入院しない前に作つた歌の一つであつた。さうしてその夢は、予の腹の漸く膨れ出して以來、その壓迫を蒙る内臟の不平が夜毎々々に釀した無數の不思議な夢の一つであつた。――何でも、大勢の巡査が突然予の家を取圍んだ。さうして予を引き立てゝ神樣の前へ伴れて行つた。神樣は年をとつたアイヌの樣な顏をして、眞白な髯を膝の
前へ
次へ
全9ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング