セ。また徳川光圀は、数奇な道に遊ぶと、器物の慾が出るものだといって、折角好きな茶の湯をも、晩年になってふっつりと思いとまったということだ。こんな人達がいったことに寸分間違いはないとしても、器物はやはり立派な方がよかった。器がすぐれていると、それに接するものの心までが、おのずと潤いを帯びて、明るくなってくるものだ。

     2

 天明三年、松平不昧は稀代の茶入|油屋肩衝《あぶらやかたつき》を自分の手に入れた。その当時の取沙汰では、この名器の価が一万両ということだったが、事実は天明の大饑饉の際だったので、一千五百両で取引が出来たのだそうだ。一国の国守ともある身分で、皆が饑饉で困っている場合に、茶入を需めるなどの風流沙汰は、実はどうかとも思われるが、不昧はもう夙くにそれを購ってしまったのだし、おまけに彼自らももう亡くなっているので、今更咎め立てしようにも仕方がない。――だが、これにつけても真実《ほんとう》だと思われるのは、骨董物は饑饉年に買いとり、娘は箪笥の安いときに嫁入させるということである。
 不昧はこの肩衝の茶入に、円悟の墨蹟をとりあわせて、家宝第一ということにした。そして参勤交代の折には、それを笈《おい》に収めて輿側《かごわき》を歩かせたものだ。その愛撫の大袈裟なのに驚いたある人が、試しに訊いたことがあった。
「そんなに御大切な品を、もしか将軍家が御所望になりました場合には……」
 不昧は即座に答えた。
「その代りには、領土一箇国を拝領いたしたいもので。」

 あるとき、某の老中がその茶入の一見を懇望したことがあった。不昧は承知して、早速その老中を江戸屋敷に招いた。座が定ると、不昧は自分の手で笈の蓋を開き、幾重にもなった革袋や箱包をほどいた。中から取出されたのは、胴に珠のような潤いをもった肩衝の茶入だった。不昧はそれを若狭盆に載せて、ずっと客の前に押し進めた。
 老中は手に取りあげて、ほれぼれと茶入に見入った。口の捻り、肩の張り、胴から裾へかけての円み、畳附のしずかさ。どこに一つの非の打ちどころもない、すばらしい出来だった。老中はそれをそっと盆の上に返しながら、いかにも感に堪えたようにいった。
「まったく天下一と拝見いたしました。」
 その言葉が終るか、終らないかするうちに、不昧は早口に、
「もはやおよろしいでしょうか。」
といいざま、ひったくるように若狭盆を手もとに引寄せた。まるで老中が力ずくで、その茶入を横取しはしないかと気づかうかのように。

     3

 The Ladies' Home Journal の記者として、三十年も働いていた Edward Bok が、まだ十五、六の少年の頃だった。名士訪問を志して、ボストンに牧師として名高い Phillips Brooks を訪ねたことがあった。牧師はその当時蔵書家として聞えた一人だった。
 訪問の前日、この牧師の友人である Wendell Phillips に会った。少年の口から明日の予定を聞いたこの雄弁家は、笑い笑い言ってきかせた。
「明日は Brooks を訪ねるんだって。あの男の書斎にはぎっしり本がつまっていて、それにはみんな記号と書入れとがしてあるんだよ。訪ねて往ったら、是非その本を見せてもらいなさい。そしてあの男がよそ見をしているときに、二冊ばかりポケットに失敬するがいい。何よりもいい記念になるからな。なに、どっさり持合せがあるんだ。発見《めっけ》られる心配なんかありゃしないよ。」

 少年は Brooks に会うと、すぐにこの話をした。牧師は声を立てて笑った。
「子供に与える大人の助言としては、随分思い切ったことをいったものだな。」
 Brooks はこの幼い珍客を、自分の書斎に案内することを忘れなかった。そこには世間の評判通りに、沢山の書物がぎっしり書棚に詰っていた。
「ここにある書物には、それぞれ書入がしてあって、中にはそのために頁が真黒になっているのもある。世間にはこの書入を嫌がる人もあるようだが、しかし、書物が俺に話しかけるのに、俺の方で返事をしないわけに往かんじゃないか。」
 こういって、牧師は書棚から一冊のバイブルを引出して見せた。それは使い古して、表紙などくたくたになっている本だった。
「俺のところにはバイブルは幾冊もあるよ。説教用、儀式用とそれぞれ別になっているが、この本は俺の自家用というわけさ。見なさい、こんなに書入がしてある。これはみんな使徒パウロと俺との議論だよ。随分はげしい議論だったが……さあ、どちらが勝ったか、それは俺にもわからない。」
 少年の眼が、どうかすると細々した書入よりも、夥しい書棚に牽きつけられようとするのを見てとった Brooks は、
「お前さんも、本が好きだと見えるな。何ならボストンへやって来たときには、いつでも家へ来て、勝手にそこらの本を取出して見てもかまわないよ。」
と、お愛想を言ったが、最後に笑いながらこう言ってつけ足すのを忘れなかったそうだ。
「俺はお前の正直なのを信じているよ。まさか Wendell Phillips の言ったようなことはしまいね。」
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   女流音楽家

 プリマ・ドンナの Tetrazzini 夫人が演奏旅行をして、アメリカの Buffalo 市に来たことがあった。夫人の支配人は、土地で聞えた Statler ホテルへやって来て、夫人のために三室続きの部屋を註文した。その当時、ホテルには二室続きの部屋は幾つかあったが、註文通りの部屋といっては、一つも持合せがなかった。だが、ホテルの主人は、この名高い女流音楽家をほかの宿屋にとられることが、どれだけ自分の店の估券にかかわるかをよく承知しているので、平気でそれを引受けた。
「承知仕りました。夫人はいつ頃当地にお着になりますお見込で……」
「今晩の五時には、間違いなく乗込んで来るはずです。」
 主人は時計を見た。ちょうど午前十時だった。
「よろしうございます。それまでにはちゃんとお部屋を用意いたして、皆様のお着をお待ちうけ申すでございましょう。」
 支配人の後姿が見えなくなると、ホテルの主人は大急ぎで出入の大工を二、三人呼びよせた。そして二室続きの部屋と第三の室とを仕切っている壁板をぶち抜いて、そこに入口の扉をつけた。削り立ての板には乾きの速い塗料を塗り、緑色の帷《カアテン》を引張って眼に立たぬようにした。汚れたり傷がついたりしていた床の上には、派手な絨氈を敷いて、やっと註文通りの三室続きの部屋が出来上った。それは約束の午後五時に五分前のことだった。
 それから暫くすると、支配人を先に、美しく着飾った Tetrazzini が入って来た。そしてホテルの主人から新しく出来上った部屋のいきさつを聞くと、満足そうにほほ笑んだ。
「まあ、そんなにまでして下すったの。ほんとうにお気の毒ですわ。」

 だが、Tetrazzini よ。そんなに己惚れるものではない。女という女は、どうかすると相手の男の胸に、第二第三の新しい部屋をこしらえさせるもので、男がその鍵を滅多に女に手渡ししないから、女がそれに気づかないまでのことだ。――唯それだけのことなのだ。
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   演説つかい

 バアナアド・ショウは、その脚本の一つで、英雄シイザアの禿頭を、若いクレオパトラの口でもって思う存分に冷かしたり、からかったりしている。どんな偉い英雄でも、クレオパトラのような美しい女に、折角隠していた頭の禿を見つけられて冷かされたのでは、少々参るに相違ない。
 アメリカの法律家で、長いこと下院の雄弁家として聞えた男に Thomas Reed というのがあった。この男があるとき、まだ馴染のない理髪床へ鬚を剃りに入って往ったことがあった。
 黒ん坊の鬚剃り職人は、髪の毛の薄くなった客の頭を見遁さなかった。そしてあわよくば発毛剤《けはえぐすり》の一罎を客に押しつけようとした。
「旦那。ここんところが少し薄いようだが、こんなになったのは、随分前からのことでがすか。」
「禿げとるというのかね。」法律家は石鹸の泡だらけの頤を動かした。「わしが産れ落ちた時には、やはりこんな頭だったよ。その後《ご》人が見てうらやましがるような、美しい髪の毛がふさふさと生えよったが、それもほんの暫くの間で、すぐにまた以前のように禿げかかって来たよ。」
 黒ん坊はそれを聞くと、鼻さきに皺をよせて笑っていたが、発毛剤のことはもうあきらめたらしく、黙りこくって剃刀を動かしていた。
 客が帰って往った後で、そこに待合せていた男の一人が、今までそこで顔を剃らせていた客は、議院きっての雄弁家だということを話した。すると、黒ん坊は厚い唇を尖らせて、喚くようにいった。
「雄弁家だって。そんなこと知らねえでどうするものか。わしら誰よりもよくあの旦那が演説遣いだってえことを知ってるだよ。」
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   名前

     1

 劇場監督として聞えた Charles Frohman が、あるとき友人の劇作家 J. M. Barrie と連れ立って、自分の関係しているある劇場の楽屋口から入ろうとしたことがあった。
 そこに立っていた門番の老人は、胡散そうな眼つきをして、先きに立った Frohman の胸を突いた。
「ここはあんた方の入る所じゃござりません。」
 それを聞いた劇場監督は、すなおに頷いて後へ引き返した。
 その場の様子を見た Barrie は、腑に落ちなさそうに訊いた。
「何だって君、あの爺さんに君の名前を打ち明けないんだね。」
「とんでもない。」劇場監督はびっくりしたように言った。「そんなことでもしてみたまえ。爺さん、おっ魂消《たまげ》て死ぬかも知れないぞ。あれは御覧の通りの善人で、唯もう仕事大事に勤めているんだからね。」

     2

 アメリカの俳優として聞えたJoe Jefferson が、あるときデトロイトの銀行で、持って来た小切手の支払を受けようとしたことがあった。
 出納係の若い男は、小切手から離した眼を、窓の外に立っている男に移して、じろじろとその顔に見入った。
「失礼ですが、あなたが Jefferson さん御当人だとおっしゃるのは。」
 俳優はそれを聞くと、ちょっと眼をぱちくりさせたが、急に舞台に立っている折のように声に抑揚《めりはり》をつけて、
“If my leedle dog Schneider was only here, he'd know me.”
と流れるように言った。
「いや、間違いはございません。」
 出納係は喜ばしそうに叫んだ。そして小切手はすぐに正金に換えられた。

     3

 明の詩画家許友は、ぶくぶくに肥った背低《せひく》で、身体中に毛といっては一本も生えていなかった男だが、人が訪ねて来ても、それに答礼するでもなく、そんな交際《つきあい》には一向無頓着であった。あるとき客が来て、詩だの画だのいろんな話をして帰って往ったが、その後で許友は家の者に、
「今のは何という男だったかな。」
と訊いたので、
「あなたの御存じない人が、私に判ろうはずはありません。」
というと、許友は禿げた頭に手をやりながら、
「俺には一向覚えがないでな。」
と呟くように言ったということだ。
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   返辞

     1

 新入学生が、初めて学校の校庭を踏むときには、地べたを護謨毬《ゴムまり》か何ぞのように感じるほど、神経質になるものだが、ある年の新学期にエエル大学に入って来た若い人たちのなかに、とりわけ神経質な学生が一人あった。
 部長 Jones は、その学生の家族たちと懇意にしていたので、学生が訪ねて来ると、愛想ぶりに連れ立って学校のなかを方々案内して見せた。
 その時ちょうど教会堂の鐘が鳴り出していた。さきがたからしきりと話の題目を捜していた若い学生は、やっときっかけを見つけたように言葉をかけた。
「あの鐘は、すてきによく鳴るじゃありませんか。」
 部長はずぼんの隠しに両手を突っ込んだまま、他の事でも考えているら
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