トも、文豪は何とも感じないらしかった。
「書いて欲しいと思う名前を書きつけて御覧。すれば、私がそれを見て写すから。」
少年は自分の耳を信ずることが出来なかった。だが、彼はペンを取上げて書いた。―― Ralph Waldo Emerson, Concord; November 22, 1881 ――と。
老文豪は、それを見て悲しそうに言った。
「いや、有難う。」
それから彼はペンを取上げて、一字ずつゆっくりとお手本通りに自分の名前を書き写した。そして所書きの辺まで来ると、仕事が余り難しいので、もじもじするらしく見えたが、それでもまた一字一字ぼつぼつと写し出した。所書きには、書き誤りが一つ消してあった。やっと書き写してしまうと、老文豪は疲れたようにペンを下において、帳面を持主に返した。
少年はそれをポケットに蔵《しま》い込んだ。老文豪の眼が、机の上に取り残された先刻《さっき》少年が書いたお手本の紙片に落ると、急に晴やかな笑がその顔に浮んで来た。
「私の名前が書いて欲しいのだね。承知した。何か帳面でもお持ちかい。」
びっくりさせられた少年は、機械的にも一度ポケットから帳面を取出した
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