ていた。それでも構わなかった。私は自分の胸に巣くっている、今一つのかまきりに呼びかけることが出来たから。
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   蜜柑

 黄金色の蜜柑がそろそろ市に出るころになった。

 むかし、善光という禅僧があった。あるとき托鉢行脚に出て紀州に入ったことがあった。ちょうど秋末のことで、そこらの蜜柑山には、黄金色の実が枝もたわむばかりに鈴なりになっていた。山の持主は蜜柑取に忙しいらしく、こんもり繁った樹のかげからは、ときおり陽気な歌が聞えていた。
 蜜柑山に沿うた小路をのぼりかかった善光は、ふと立ちとまった。頭の上には大粒の蜜柑のいくつかがぶら下っていた。善光は不思議なものを見つけたように、眼を上げてその枝を見つめた。そしてときどきいかにも不審に堪えないように小首をかしげては、何やら口のなかで独言をいっているらしかった。
 しばらくすると、程近い樹のかげから一人の農夫がのっそりと出て来た。
「坊さん。あんたそんなところで何してはりまんね。」
 善光は手をあげて頭の上の枝を指ざした。
「あすこに変なものがぶら下っている。あれは何というものかしら。」
「変なもの。どれ。どこに。」
 農
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