夫は善光の指ざす方角を見あげた。そしてはじけるように笑い出した。
「はははは。あれ知んなはらんのか。蜜柑やおまへんか。」
「蜜柑。」善光はいぶかしそうに農夫の顔を見た。「何ですか、蜜柑というのは。」
「蜜柑を知んなはらんのか。」農夫はおかしそうな表情をして善光を見かえした。旅の坊さんは牛のようなとぼけた顔をして立っていた。農夫は爪立ちをしながら手を伸ばして、枝から蜜柑の一つをもぎとった。「まあ、あがってごらん。おいしおまっせ。」
 善光は熟しきった果物を手のひらに載せられたまま、それが火焔のかたまりででもあるかのように眼を見張った。
「食べられる、これが……」
 善光のもじもじしている容子を見た農夫は、おかしさに溜らなさそうにまた笑い出した。
「坊さんなんて、ありがたいもんやな。蜜柑の食べ方一つ知んなはらん。どれ、わしが教えてあげまっさ。」
 農夫は蜜柑の皮をむいて、あらためて中味を善光の手にかえした。
 善光はそれを一口に頬張った。その口もとを見つめていた農夫はいった。
「なかなかおいしおまっしゃろ。」
 善光はそれには答えないで、蝦蟇《がま》のような大きなおとがいを動かしながら、じ
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