でも、食物の味のわからない人達に、その呼吸がわかろうはずがありませんよ。庖丁加減にちっとも気のつかない奴が、物の上手になったためしはないのですからな。」
四条派の始祖松村呉春は、人を見るとよくこんなことをいったものだ。
呉春は、『胆大小心録』の著者上田秋成から、「食いものは、さまざまと物好みが上手じゃった。」といわれたほどあって、味覚がすぐれて鋭敏な人で、料理の詮議はなかなかやかましかった。
呉春は若い頃から、暮し向がひどく不自由なのにもかかわらず、五、六人の俳人仲間と一緒に、一菜会という会をこしらえて、毎月二度ずつ集まっていた。そしてその会では、俳諧や、絵画の研究の外に、いろいろ変った料理を味って、この方面の知識を蓄えることも忘れなかった。
2
呉春は困った時には、島原の遊女が昵懇客《なじみきゃく》へおくる艶書の代筆までしたことがあった。そんな苦しい経験を数知れず持っている彼も、画名があがってからの貧乏は、どうにも辛抱が出来なかった。
師の蕪村の門を出てから後も、呉春の画は一向に売れなかった。彼は自分の前に一点のかすかな光明をも見せてくれない運命を呪った。そし
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