れと同じ頃を見はからって、砂丘のあなたの青い海からもまたやって来た。私の生れ故郷は、瀬戸内海の波の音のきこえる小村で、春になると、桜鯛がよく網に上った、それを売り歩く魚商人の声が、陽気に村々に聞えて来ると、村人は初めて海の春が、自分たちの貧しい食膳にも上るようになったのを喜んだものだ。
 麦の茎が伸び、雲雀が空でちろちろ鳴いていても、海に桜鯛がとれ出したという噂を聞かないうちは、春も何となく寂しかった。

     2

 桜鯛よ。
 網から引あげられて籠に入ったお前は、タニスで発見せられた名高いニイル河神の石像に彫りつけられた河魚のように、いつも横向きになっていて、つぶらな唯一つの眼しか見せていない。そのむかし、アレキサンドル大王の部将として聞えていたアンチゴノスは、自分の横顔《プロフィル》を描かせた最初の人だといわれているが、それはこの男が生れつきのめっかちだったので、その醜さを人に見られまいための用意に過ぎなかった。鯛はアンチゴノスと違って、眼は二つともいい分はなかったが、魚のならわしとして、一つの側面に一つの眼をしか持っていなかったから、籠のなかに寝かされたのでは、その一つの眼
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