聞えなくなったのに驚いた東宮は、自分の仕打に気づいて、残り惜い思いはしながらも、またもとのように居ずまいを直した。侍講はやっと安心したように再び講義を続けたということだ。
儒者焦澹園のつもりでは、かりにも聖賢の道を聞いている途中で、東宮ともあろうものが、小鳥の素振に気をとられるなどとは、怪しからぬことだというにあるらしいが、しかし、ほんとうのことをいうと、東宮はいいものを見つけたので、侍講は何をさしおいてもそれをほめなければならないはずなのだ。堅苦しい聖賢の道を聞きながら、小鳥の流れるような音律に耳を傾け、溌溂たる動作に眼を奪われるというのは、規律と形式との生活のただ中にいても、なお自然物と戯れ、自然物と楽もうとする、ほしいままな心を失わない証拠で、侍講が今少し賢いか、今少し愚かのどちらかであって、東宮が小鳥に見とれているのをそのまま見遁すことが出来たなら、この年若な貴公子はしかつべらしい聖賢の道よりも、もっと自由で、もっと明るいものを見つけることが出来ただろうと思われる……
そんな他人のことを考えるひまがあったら、私は自分の見つけた小鳥と遊んだ方がよかった。――小鳥は今持前の
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