地に、かなり大きな桜の老木が一つ立っていた。
それを見ると、私は思いがけないところでむかし馴染に出あったような気持で、邪魔になる灌木を押し分けながら、足を早めてその樹の側に近寄って往った。そして滑々した樹の肌をひとしきり手で撫でまわした後、私はそっと自分の背を幹にもたせかけた。
枝という枝は、それぞれ浅緑の若葉と、爪紅をさした花のつぼみとを持って、また蘇って来た春の情熱に身悶えしている。冬中眠っていた樹の生命は、また元気よくめざめて、樹皮の一重下では、その力づよい脈搏と呼吸とが高く波うっている。
その道の学者のいうところによると、野中に立っている一本の樺の木は、一日に八百ポンド以上の水分を空中に向って放散している。普通の大きさの水桶でこれだけの水を運ぼうとするには、まずざっと三十二度は通わなければならぬ。もしか人が地べたから樺のてっぺんまでそれを持ち運ぶとして、一度の上り下りに十分かかるものとすれば、それだけの水を運んでしまうには、五時間以上も働かなければならぬことになるといっている。
樺にしてからがそうだ。桜にしてもそうでないとはいわれまい。とりわけ春は再び樹にかえって来て、
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