の度に世間の人たちから、
「また河内屋のいたずらか。何を仕出かすかもわからない男だな。」
と評判を立てられるようになった。
 あるとき、紀州侯を備後町の屋敷に迎えて、茶を献じたことがあった。紀州侯はその日の水が大層気に入ったらしかった。
「いい水質だ。太郎兵衛、ついでがあったら余も少しこの水を貰い受けたいものじゃて。」
 太郎兵衛はかしこまった。
「お口にかないまして、太郎兵衛面目に存じます。早速お届け致すでござりましょう。」
 紀州侯は間もなく和歌山へ帰った。そして太郎兵衛の茶席で所望した水のことなどはすっかり忘れていた。すべて人の頭に立とうというものは、昨日あったことを今日は忘れてしまわねばならない場合が多いものだが、紀州侯は誂え向きにそういう質に生れ合わせていたらしかった。
 ある日のこと、側近くに仕えている家来の一人が、慌てて紀州侯の前へ出て来た。
「殿、只今大阪の商人河内屋太郎兵衛と申すものから、かねてのお約束だと申しまして、水を送って参りました。」
「ほう、河内屋太郎兵衛から……水を……」紀州侯は忘れていた約束を思い出した。
「それならば早速受取ってつかわし、大事に貯えおく
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