c…。」
気後れがするらしく、口のなかで言う農夫の言葉を、教師は皆まで聞かなかった。
「私の梨畑だと。お前さんにそんなものはないはずだ。何もかも一切神様にお返ししなさい、といって聞かせたことをもう忘れているね。」
それを聞くと、農夫は両手を膝の上へ、頭を垂れたまま、悄気《しょげ》かえったようにじっと考え込んでいたが、暫くすると、
「いや、よくわかりました。私が間違っておりました。」
と、丁寧に教師に挨拶をして帰って往った。
その日から農夫の心は貧しくなった。彼は一切のものを神に返した。毎朝鋏と鍬とをもって梨畑へ出かけると、いつもきまったように樹の下に立って、
「神様。これからあなたの畑で働かせていただきます。もしか梨の実がみのって、少しでも余分のものがおありでしたら、そのときには盗人や虫におやりになる前に、まず私にいただかせて下さいますように。」
と、真心を籠めて祈念した。そして自分の畑を自分の手で処理するといったようなこれまでの気儘な態度をあらためて、自分はただこの畑の世話をするために雇われた貧しい働き人の一人に過ぎないような謙遜な気もちで、一切を自然にまかせっきりにして、傍か
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