キ守は言った。
「先日のお言葉に、御老年の御身、次の御参府も望まれないによって、虚堂の墨蹟御覧になりたいとのことでござりましたが、この後とも引続き御参府をお待ちいたせばこそ、わざと今日はお目にかけるのを差控えたのでござります。この次に御参府の節には、きっとお約束を果しますが、しかし、たっての御所望ならば、書院にて御覧に入れよとのことでござりますが……。」
 若狭守が箱の蓋に持ち添えた懸物は、長年の間三斎が夢にも忘れ得なかった虚堂禅師の墨蹟だった。彼が一言所望さえしたなら、その場で直に天下一の禅師の風格に接することが出来るはずだった。実を言えば、彼はもう年をとり過ぎていた。どんな事があって、次の年の参府が出来なくなるかも知れなかった。それを思えば、彼は今生の思い出としても、飽かずその懸物に見入りたかった。彼は思わず、
「しからば、お言葉にあまえまして……。」
と言おうとして、急に口を噤《つぐ》んだ。
 そんなことが言われるべき義理はなかった。かたい約束に背いてまでも、彼の息災を祈ってくれる若い大納言の心遣いを思えば、そんなことは※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]気にも出せるわけで
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