ォらめはしない。
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マッチの火
これは露西亜の片田舎にある一軒屋で起きた事柄だ。――
ある独身者の農夫が、寝しなに自分の義歯《いれば》をはずして、枕もとのコップの水に浸しておいた。すべて義眼や義歯をはめている人たちは、よくこうしたことをするものなのだ。
その夜はひどく寒かった。朝起きてみると、戸外は大雪だった。農夫は義歯を取り上げようとして、初めてコップの水がなかに歯を抱《いだ》いたままで、堅く凍りついているのに気がついた。
氷を溶すには、さしあたり火をおこすより仕方がなかった。彼は台所に下りてマッチを捜したが、間が悪いときには悪いもので、唯の一本もそこらに見つからなかった。
ちょうど暁の五時で、農夫は義歯のない口では、朝飯を食べることもできなければ、また人と話をするわけにも往かなかった。
彼は厩に入って馬を起した。そして町はずれに住んでいる友人を訪ねようとして、六|哩《マイル》の間雪の道を走らせた。
友人は入口に立ったその訪問客が、急に齢《とし》とって皺くちゃな、歯のない頤をもぐもぐさせながら、手ぶりで何か話そうとするのを見てびっくりした。やっと
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