゚て、大きな欠伸《あくび》をするのが眼につきました。
「いよう、黒外套《くろがいとう》の哲学者先生。お久しぶりですな。」剽軽者《ひょうきんもの》の一羽の雀は心安立《こころやすだて》と御機嫌とりとからこんな風に呼びかけました。「先生は唯今私達の仲間がみんなおめでたく出来てるようにおっしゃいましたね。」
「いったよ。確かにいった。実際そうなんだから仕方がない。」
黒猫の眼は金色に輝きました。
「何がおめでたいんだか、そのわけを聞かしてもらおうじゃないか。」
雀の二、三羽が、不平そうにそっと嘴を突らしました。
「望みならいって聞かそう。」黒猫は哲学者の冷静を強いて失うまいとするように、長い口髭を一本一本指でしごきながらいいました。「お前達は人間の描いたものには、もう一切目を藉《か》さない。そうすれば欺かれる心配がなくなるから、自然画の評判も立たなくなるわけだと思ってるらしいが、それがおめでたくて何だろう。画の評判ってものは、お前達が立てるのじゃなくて、ほんとうは世間のするしわざじゃないか。」
「世間。おれはまだ世間ってものを見たことがない。」
第一の雀は不思議そうな顔をして、第二の雀をふりかえりました。
「世間ってのは、人間の仲間をひっくるめていう名前なんだよ。」黒外套の哲学者は、今更そんな講釈をするのは退屈至極だといわないばかりに大きなあくびをしました。
「人間を活《い》かすも殺すも、この世間の思わく一つによることなんだが、もともと人間って奴が妙な生れつきでね。多勢集まると、一人でいる時よりも品が落ちて、とかく愚《ばか》になりやすいんだ。だからお前達のようなもののしたことをも大袈裟に吹聴して、うっかり評判を立てるようなことにもなるんさ。」
「じゃ、その世間とやらを引き入れて、そいつに背《せな》を向けさせたらどうなんだ。」癇癪持の蜜蜂は、やけになって喚《わめ》きました。「どんな高慢ちきの画かきだって、ちっとは困るだろうて。」
「それが出来たら困るかも知れん。また困らぬかも知れん。なぜといって、人間の腹の中にはそれぞれ虫が潜《もぐ》っていて、こいつの頭《かぶり》のふりよう一つで、平気で世間を相手に気儘気随をおっ通したがる病《やまい》があるんだから。そうだ。まあ、病《やまい》だろうね。尤もそんな折には誰でもが極って持ち出したがる文句があるんだよ。
――今はわからないんだ。やがてわかる時が来るだろう。
といってね。文句というものは、またたびと同じようになかなか調法なものさ。」
黒猫は口もとににやりと微笑を浮べたかと思うと、そのまま起き上って、足音も立てず草の中に姿を隠してしまいました。
「腹の中に虫が……。変だなあ。人間って奴、どこまで分らないずくめなんだろう。」
知慧自慢の第二の雀が焦茶色の円い頭を傾《かし》げて、さもさも当惑したように考え込むと、残りの雀も同じように腑に落ちなさそうな顔をして、きょろきょろしていました。
短気ものの蜜蜂は、悔《くや》しまぎれに直接行動でも思い込んだらしく、誰にも言葉を交わさないで、いきなり小さな羽を拡げて、森から外へ飛び出しました。
[#改ページ]
肖像画
少年少女のために
むかし、天保の頃に、二代目一陽斎豊国という名高い浮世絵師がありました。
あるとき、豊国は蔵前の札差《ふださし》として聞えた某《なにがし》の老人から、その姿絵を頼まれました。どこの老人もがそうであるように、この札差も性急《せっかち》でしたから、絵の出来るのを待ちかねて、幾度か催促しました。ところが、多くの絵師のそれと同じように、豊国はそんな註文なぞ忘れたかのように、ながく打捨ておきました。
やっと三年目になって、姿絵は出来上りました。使に立った札差の小僧は、豊国の手から、主人の姿絵を受取って、それに眼を落しました。
「これはよくにていますな。うちの御隠居さんそっくりですよ。」
と思わず叫びながら、つくづく見とれていましたが、暫くするとその眼からはらはらと涙がこぼれかかろうとしました。すぐ前で煙草をふかしていた豊国は、それを見遁しませんでした。
「おい、おい。小僧さん。何だって涙なぞこぼすのだ。御隠居のお小言でも思い出したのかい。それならそれでいいが、絵面を濡らすことだけは堪忍してくんな。」
「いいえ、違います。」小僧は慌てて手の甲で、涙を受取りました。「私にも国もとにこの御隠居様と同じ年恰好のお祖父様《じいさま》があります。小さい時から大層私を可愛がってくれましたので、江戸へ奉公に出て来ても、一日だって忘れたことはありません。今これを見るにつけて、私のお祖父様をもこんな風に描いていただきましたら、どんなにか嬉しかろうと存じまして。」
「ふうん。そんな訳だったのか。お前、祖父さん思いだな。」豊国は
前へ
次へ
全61ページ中58ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
薄田 泣菫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング