゚て手にとって見直すことにした。
洗い清められた溺器《しびん》の肌には、古い陶物《やきもの》の厚ぼったい不器用な味がよく出ていた。愛撫に充ちた貞昌の眼は労わるようにその上を滑った。
「亭主。この器が譲り受けたい。価は何程にしてくれるの。」
暫くしてから、貞昌は主人の方に振り向きざま言葉をかけた。
「お気に召しましたらお持ち帰りを願いますが、旅籠屋が溺器をお譲りして代物《だいもつ》をいただきましたとあっては……」
主人は小泉一万石の城主ともあるものが、ものもあろうに旅籠屋の溺器を買い取ろうとするなぞ、風流にしてはあまりに戯談に過ぎ、戯談にしてはあまりに風流に過ぎるとでも思っているらしかった。
「他人から物を譲り受けて、代物を払わぬという法はない。」
貞昌は半は自分の供のものたちへ言いきかせるようにいって、何程かの金を主人の手に渡させた。
貞昌は静かに立って夜の障子を開けた。薄暗い内庭に踏石がほんのり白く浮んで見えた。彼は手に持った溺器を強くそれに叩きつけた。居合せた人たちはびっくりした顔を上げた。
何事もなかったような気振《けぶり》で貞昌は座に帰った。そして静かな声でいった。
「わしの見たところに間違がなければ、あれは立派な古渡《こわたり》じゃ。今は埋れて溺器に用いられているが、もしか眼の利く商人《あきんど》に見つかって掘り出されでもしようものなら、どんなところへ名器として納まらぬものでもない代物《しろもの》じゃ。そんなことがあってはならぬと思うから、可惜《あたら》ものをつい割ってしもうた。」
4
三人は三様の心持と方法とで、世の中から三つの陶器を失った。失われたのは、いずれも秀れた名器だったが、彼等はそれを失うことによりて、一層尊いあるものを救うことが出来たのだ。
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利休と丿観
山科の丿観《へちかん》は、利休と同じ頃の茶人だった。丿観は利休の茶に幾らか諂《へつら》い気味があるのを非難して、
「あの男は若い頃は、心持の秀れた人だったが、この頃の容子を見ると、真実が少くなって、まるで別人のようだ。あれを見ると、人間というものは、二十年目ぐらいには心までが変って往くものと見える。自分も四十の坂を越えて、やっと解脱の念が起きた。鴨長明は蝸牛のように、方丈の家を洛中に引っ張りまわし、自分は蟹のように他人の掘った穴を借りている。こうして現世を夢幻と観ずるのは、すべて心ある人のすることだが、利休は人の盛なことのみを知って、それがいつかは衰えるものだということを知らないようだ。」
と言い言いしていたが、利休は別に自分のすばらしい天地をもっており、それに性格から言っても、丿観よりは大きいところがあったから、そんな非難をもあまり頓着しなかったようだ。
あるとき、丿観が茶会を開いて、利休を招いたことがあった。案内にはわざと時刻を間違えておいた。
その時刻になって、利休は丿観の草庵を訪れた。ところが、折角客を招こうというのに、門の扉はぴったりと閉っていた。
「はてな。」
利休は門の外で早くも主人の趣向にぶっつかったように思った。丿観はそのころの茶人仲間でも、一番趣向の気取っているので知られた男だった。利休はその前の年の秋、太閤が北野に大茶の湯を催したときのことを思い出した。その日利休は太閤のお供をして、方々の大名たちの茶席を訪れた。そして由緒のある高貴な道具の数々と、そんなものを巧く取合せていた茶席の主人の心遣とを味って、眼も心も幾らか疲労を覚えた頃、ふと見ると、緑青を砕いたような松原の樹蔭に、朱塗の大傘を立てて、その下を小ぢんまりと蘆垣で囲っているのがあった。主人は五十ばかりの法体で、松の小枝に瓢をつるし、その下で静かに茶を煮ていた。
ものずきな太閤が、ずかずかと傘の下に入って往って、
「どうだ。ここにも茶があるのかい。」
と大声に訊かれると、主人はつつましやかに、
「はい。用意いたしております。」
と言いざま、天目茶碗に白湯をくみ、瓢から香煎《こうせん》をふり出して、この珍客にたてまつった。その法体の主人こそ、別でもない山科の丿観で、その日の高く取り澄した心憎さは、いまだに利休の心に軽い衝動を与えずにはおかなかった。
利休は潜り戸を開けて、なかに入った。見ると、すぐ脚もとに新しく掘ったばかしの坑があり、簀子をその上に横たえて、ちょっと見に分らぬように土が被せかけてあった。
「これだな、主人の趣向は。」
客はその瞬間、すぐに主人の悪戯《いたずら》を見てとった。平素から客としての第一の心得は、主人の志を無駄にしないことだと、人に教えもし、自分にも信じている彼は、何の躊躇もなく脚をその上に運んだ。すると、簀の子はめりめりとへし折れる音がして、客はころころと坑のなかに転げ込んだ。
異様な
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