轤ィ許しが出ると、経広はいそいそと立ち上って南向きの勾欄に近づいて往った。ちょうど秋の曇り日の午過ぎだったので、御殿の中は経広の老眼にはあまりに薄暗かった。彼は明りを求めて勾欄の上にのしかかるようにして茶碗を眺めた。いかにも感に堪えたように幾度か掌面《てのひら》にひねくり廻しているうちに、どうしたはずみにか、つい御器《おうつわ》を取り落とすような粗忽をしでかした。茶碗は切石の上に落ちて、粉々に砕けてしまった。
主上はさっと顔色を変えられたらしかった。座に帰って来た経広には、悪びれた気色も見えなかった。
「過失とは申しながら、御秘蔵の名器を毀ちました罪は重々恐れ入ります。しかし、よくよく考えまするに、名器とは言い条、これまで数多の人の手にかかりたるやも知れざる品、むかし宋の徽宗皇帝は秘蔵の名硯を米元章に御貸与えになり、一度臣下の手に触れたものは、また用い難いとあって、そのまま元章にお下げになりましたとやら。さような嫌いのある品を御側近うお置きになりますのはいかがかと存ぜられます。してみれば、唯今の粗忽もかえって怪我の功名かと存じまして……」
この一言を聞かれると、主上の御機嫌は直ったが、しかし何となく寂しそうだった。
心ざまの真直な経広は、茶器の愛に溺れきっていられる主上を諫めようとして、向う見ずにもその前にまず肝腎の茶器を壊してしまったのだ。
2
伊達政宗があるとき家に伝えた名物茶碗を取出していたことがあった。
太閤秀吉が自分の好みから、また政略上の方便から煽り立てた茶の湯の流行は、激情と反抗心との持主である奥州の荒くれ男をも捉えて、利休の門に弟子入をさせ、時おりは為《しよ》う事なさの退屈しのぎから、茶器弄りをさえさせるようになったのだった。
茶碗は天目だった。紺青色の釉《くすり》のなかに宝玉のような九曜星の美しい花紋が茶碗の肌一面に光っていた。政宗は持前の片眼に磨りつけるようにして、この窯変の不思議を貪り眺めていたが、ついうっとりとなったまま、危く茶碗を掌面《てのひら》より取り落そうとした。
政宗ははっとなって覚えず胆を潰した。
「金二千両もしたものじゃ。壊してなるものか。」
こんな考えが電光のように頭のなかを走った。仕合せと茶碗は膝の上で巧く両手の掌面《てのひら》に抱きとめられていた。政宗は冷汗をかいた。胸には高く動悸が鳴っている……
「おれは娘っ子のようにおっ魂消たな。――恥しいことじゃ。」
政宗はその次の瞬間そう思って悔しさに身悶えした。突嗟の場合器の値段を思い浮べて、胸をどきつかせたのが何としても堪えられなく厭だった。
いつだったか、政宗は徳川家康に茶の饗応《ふるまい》を受けたことがあった。そのおり家康は湯を汲み出そうとして何心なく釜の蓋へ手をやった。蓋は火のように熱していた。あまりの熱さに家康は小児のように、
「おう、熱う……」
と叫んで、釜の蓋を取り離したかと思うと、慌ててその手を自分の耳朶へやった。その様子がいかにも可笑しかったので、政宗は覚えず
「うふ……」
と吹き出してしまった。
家康はそれを聞くと、また気をとり直して、前よりは熱していたらしい釜の蓋を平気で撮み上げた。そして何事もなかったように静かに茶を立てにかかった。
政宗はいつに変らぬ亭主のねばり強さに感心させられたが、それでも腹のなかではもしか俺だったら、初めに手にとり上げたが最後、どんなに熱くたって釜の蓋を取り落すような事はしまいと思った。
政宗は今それを思い出した。あんなに心上りしたことを考えていたものが、今の有様はどうだったかと思うと、顔から火が出るような気持がした。誰だったか知らないが自分の耳近くにやって来て、
「うふ……」
と冷かすように吹き出したらしい気配《けはい》を政宗は感じた。
逆上《のぼ》せ易いこの茶人はかっとなってしまった。彼は鷲掴みに茶碗を片手にひっ掴んだかと思うと、いきなりそれを庭石目がけて叩きつけた。茶碗はけたたましい音を立てて、粉微塵に砕け散った。
「は、は、は、は……」
政宗は声高く笑った。彼はその瞬間、金二千両の天目茶碗を失った代りに、自分の心の落着きをしかと取り返すことが出来たように思って、昂然と胸を反らした。
3
泉州小泉の城主片桐貞昌は、茶道石州流の開祖として、船越吉勝、多賀左近と合せて、その頃の三宗匠と称えられた名誉の茶人であった。
貞昌があるとき、海道筋に旅をして宿屋に泊ったことがあった。ちょうど冬のことだったので、宿屋の主人《あるじ》は夜長の心遣いから、溺器《しびん》を室の片隅に持運んで来た。それは一風変った形をした陶器だったが、物の鑑定《めきき》にたけた貞昌の眼は、それを見遁さなかった。彼は主人に言いつけて、器を綺麗に洗い濯がせた後、あらた
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