轤サっと草を抜き、肥料を施しなどした。
こうは思いあらためたものの、農夫は心の奥でその結果について幾らかの不安を抱かないわけではなかったが、次の夏が来て、梨の実がみのる季節になると、彼は不思議なものを見せつけられて、心の底から驚嘆した。
一度は掘り返して火に焼いてしまおうと思った、やくざな梨畑の樹という樹は、枝も撓《たわ》むばかりに大きな果実を幾つとなくつけているのであった。
3
「その不思議な梨畑に出来たのが、実はこれなんだよ。」
客のG氏はこう言って、自分が持って来た果物籠から、梨の実の一つを取出したかと思うと、皮をもむかないで、いきなりそれに噛みついた。
4
こんな話がむかしにも一つある。
足利時代に又四郎という庭造りの名人があった。庭造りというと、今も昔も在り来りの型より外には、何一つ知らぬ輩のみ多いが、又四郎はそんなのとは異って、文字もあり、する仕事にも、それぞれちゃんとした典拠があったようだ。
あるとき又四郎が、さる寺方から頼まれて、築山を造ったことがあった。その仕事振を見ようとして、住職がぶらりと庭へ出てみると、不思議なことには滝頭《たきがしら》が西へとってあった。
住職は合点が往かなかった。
「滝頭を西にとったのはおかしい。すべてどんなものでも、頭は東にあるのが、本当じゃなかろうか。」
「ごもっともさまで。……すべて滝頭を東にとりますのは、庭造りの極った型でございます。」又四郎は答えた。「が、それは在家の庭のことで、寺方のになりますと、滝頭を西にとった方が、かえって本当かと思われます、むかしから仏法東漸と申しまして……。」
「仏法東漸か。なるほどそう聞けば、それも尤なようだて。」
住職は笑って納得するより外には仕方がなかった。
同じ頃に、蘭坡和尚という禅僧があった。和尚は自坊の境内に一段の風致を加えるために、枝ぶりのいい松を五、六株植えたことがあった。程経て気がついてみると、松の葉は赤く枯れかかっていた。和尚は衰えた松の薬には酒がいいことを聞いていたが、酒は自分にも二つとない好物だったので、いくら松のためとは言い条、それを譲るわけにはゆかなかった。和尚はかねて懇意な間柄だったので、又四郎に相談をもちかけた。
「見らるるとおり、あのように松が枯れかけて来た。何かいい薬はないものかしら。」
「薬はいろいろあるにはあります。が、どれもこれもあまり効力《ききめ》といってはないようです……。」
又四郎は赤ちゃけた松の葉を見上げながら冷やかに答えた。
「あまり効力がない。それは困ったものだな。」
和尚はさも当惑したように円い頭をふった。頭の上では松の樹が勢のない溜息をついて、同じように枝をふったらしかった。又四郎は言った。
「そんな薬よりも、ずっと効力が見えるものが一つあります。もっともこれは私の秘伝でございますが……。」
「そうか。秘伝と聞けば、なお更それを聞きたいものだて。」
「それは、和尚さま、お経にある文句なのです。」
又四郎は口もとに軽い微笑を浮べて言った。
「お経の文句。それはどのお経にある。」
和尚の眼はものずきに燃えていた。
「観音経のなかの、
[#ここから2字下げ]
※[#「澎」の「彡」に代えて「寸」、第3水準1−87−17]甘露法雨
滅除煩悩焔
[#ここで字下げ終わり]
という文句です。あの文句を紙に書いて、そっと樹の根に埋めておきますと、霊験はあらたかなものです。枯れかけた樹の色が、急に青々と若返って来ます。」
又四郎は枯れかけた当の松の樹にも、立ち聞きせられるのを気遣うように、声を低めて言った。
「いかさま。これはいいことを教えてもらった。」
和尚のよろこびは一通りではなかった、彼はいそいそと自分の居間に帰って往ったが、暫くすると、折り畳んだ紙片を掌面に載せてまた出て来た。
「又四郎どの。御面倒だが、それじゃこの紙片を土に埋めて下さい。」
又四郎は受取った紙片をそっとおし拡げてみていたが、すぐまたそれを和尚の手に返した。
「和尚さま。※[#「澎」の「彡」に代えて「寸」、第3水準1−87−17]甘露法雨の※[#「澎」の「彡」に代えて「寸」、第3水準1−87−17][#「※[#「澎」の「彡」に代えて「寸」、第3水準1−87−17]」に白丸傍点]の字が樹[#「樹」に白丸傍点]になっていますよ。」
「ほい。わしとしたことが、これは失敗ったな。」
和尚は頭を撫でて高く笑った。
文字はすぐに書きあらためられて、又四郎の手で松の根もとに埋められた、そしてそのまま捨ておかれた。
枯れかけた松の色は、やがてまた青くなり出した。
5
何事も自然にまかせて、あまりおせっかいをしないのが、一番いいようだ。
[#改ページ]
蔬菜の味
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