オて、ふと第二の売子の足音を聞いてその方にふり向いた。それは顔立も、服装も、見るから地味な婦人だった。氏は急に考をかえて、その婦人から花束を一つ買い取った。
「あなた、なぜ私のを買って下さらないの。」
 女優はわざとぷりぷりした顔をしてみせた。以前にも増してそれは美しかった。地味な姿の売子が、新しい来客の方へと急ぎ足に往ったのを見てとった Mcadoo 氏は、低声で女優に言った。
「でも、あなたはあまりお美しいから。僕は今日はいっぱし慈善家になりおおせたいつもりだから、わざと地味な方のを選んで買いました。」
 この言葉は覿面《てきめん》だった。女優はそれを聞くと、胸に抱えた花束をそっくりそのまま買い取られでもしたように、顔中を明るくして満足そうに笑った。
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   間違い

 牧師 Phillips Brooks が、あるとき宗教雑誌から訊かれた問題について、ちょっとした返事を書き送ったことがあった。そのなかに、
“We pray too loud and work too little.”
という文句があったのを、植字工はそれを拾う場合に、うまい間違いをした。刷り上った雑誌に現われた文句は次のようになっていた。
“We bray too loud and work too little.”
 Bray は「驢馬のように啼く」という言葉だ。それを見た牧師は、心から微笑《ほほえ》まぬわけに往かなかった。そして感心したように人に話した。
「植字工のしたことは、全くほんとうですね。正誤など書き送る気は更にありませんよ。」
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   救済

 滑稽作家マアク・トウェンのところへ、ふだん懇意にしているある娘から、近頃身体の加減がよくないことを訴えて来たので、作家は保健用の電気帯でも買ってみたらどうかと知らせてやったことがあった。
 すると、暫く経ってから、その娘から手紙が来た。なかに次のような文句があった。
「お言葉に従いまして、私は電気帯を一つ求めました。ですが、一向に助かりそうとは思われません。」
 作家はすぐに返事を認めた。
「私は助かりました。会社の在庫品が一つ捌《は》けましたので。」
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   良人改造

 会社|官衙《かんが》の昼間の勤めをすませて、夕方早く家に帰って来べきはずの良人が、途中でぐれて、外で夜更しをするということは、うちで待っているその妻にとっては堪えがたい苦痛に相違ない。
 そういうだらしのない男に連れ添った米国婦人の一人が、良人のそんな癖を治そうとして、いいことを思いついた。良人の穿き古した靴が破けかかって、別なのを新調しなければならないのを見てとった妻は、
「これまでのあなたの靴はあまり大き過ぎて、まるでお百姓さんのように不恰好でしたわ。こん度お誂えになるのは、も少し小ぶりになさいよ。きっと意気でいいから。」
といって、わざと文《サイズ》の小さいのを靴屋に註文させたものだ。
 このもくろみは確かに成功した。一日外で文《サイズ》の小さな靴を穿かされている良人は、足の窮屈なのにたまりかねて、勤めがすむが早いか、大急ぎで家に帰って来た。そして窮屈な靴をぬいで、スリッパに穿きかえるのを何よりも楽しみにした。
 こんな日が重なるにつれて、良人の悪い癖はいつのまにか治っていたそうだ。

 女の抜目のない利用法にかかったら、どんな男でも羅紗の小片《こぎれ》と同じように、ただ一つの材料に過ぎない。女はそれが手提袋を縫うのに寸が足りないと知ったら、代りに人形の着物を思いつこうというものだ。――滅多にあきらめはしない。
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   マッチの火

 これは露西亜の片田舎にある一軒屋で起きた事柄だ。――
 ある独身者の農夫が、寝しなに自分の義歯《いれば》をはずして、枕もとのコップの水に浸しておいた。すべて義眼や義歯をはめている人たちは、よくこうしたことをするものなのだ。
 その夜はひどく寒かった。朝起きてみると、戸外は大雪だった。農夫は義歯を取り上げようとして、初めてコップの水がなかに歯を抱《いだ》いたままで、堅く凍りついているのに気がついた。
 氷を溶すには、さしあたり火をおこすより仕方がなかった。彼は台所に下りてマッチを捜したが、間が悪いときには悪いもので、唯の一本もそこらに見つからなかった。
 ちょうど暁の五時で、農夫は義歯のない口では、朝飯を食べることもできなければ、また人と話をするわけにも往かなかった。
 彼は厩に入って馬を起した。そして町はずれに住んでいる友人を訪ねようとして、六|哩《マイル》の間雪の道を走らせた。
 友人は入口に立ったその訪問客が、急に齢《とし》とって皺くちゃな、歯のない頤をもぐもぐさせながら、手ぶりで何か話そうとするのを見てびっくりした。やっと
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