、彼はぼんやりと考え込んでいたが、暫くすると、重そうに顔をもち上げた。そして
「死んだものが生きかえったのだ。よし、おれは働こう。何事にも屈託などしないぞ。」
と呻くように叫んだ。彼は幾年かぶりに自分が失くした声を取り返したように思った。
 その途端彼は自分を殺して、また活かしてくれた河豚を思って、その味いだけは永久に忘れまいと思った。
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   食味通

     1

 物事に感じの深い芸術家のなかには、味覚も人一倍すぐれていて、とかく料理加減に口やかましい人があるものだ。蕪村門下の寧馨児《ねいけいじ》として聞えた松村月渓もその一人で、平素よく、物の風味のわからない人達に、芸事の細かい呼吸が解せられようはずがないといいいいしていて、弟子をとる場合には、画よりも食物のことを先に訊いたものだそうだ。
 だが、物の風味を細かく味いわけなければならない食味などいうものは、得てして実際よりも口さきの通がりの方が多いもので、見え坊な芸術家のなかには、どうかするとそんなものを見受けないこともない。ロシアの文豪プウシキンなども、自分が多くの文人と同じように詩のことしかわからないと言われるのが厭さに、他人と話をするおりには、自分の専門のことなぞは噫《おくび》にも出さないで、馬だの骨牌だのと一緒に、よく料理の事をいっぱし通のような口振で話したものだ。だが、ほんとうの事を言うと、プウシキンはアラビヤ馬とはどんな馬なのか、一向に見わけがつかず、骨牌の切札とは、どんなものをいうのか、知りもしなかった。一番ひどいのは料理の事で、仏蘭西式の本場の板前よりも、馬鈴薯を油で揚げたのが好物で、いつもそればかりを旨そうにぱくついていたという事だ。

     2

 そんな通がりの多い中に、日根対山は食味通として、立派な味覚を持っている一人だった。対山は岡田半江の高弟で、南宗画家として明治の初年まで存《ながら》えていた人だった。
 対山はひどい酒好きだったが、いつも名高い剣菱ばかりを飲んでいて、この外にはどんな酒にも唇を濡そうとしなかった。何かの会合で出かける場合には、いつも自用の酒を瓢に詰めて、片時もそれを側より離さなかった。
 ある時、土佐の藩主山内容堂から席画を所望せられて、藩邸へ上った事があった。画がすむと、別室で饗応があった。
 席画の出来栄《できばえ》にすっかり上機嫌になっ
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