てとうとうわれとわれが存在を否定しようとした。生きようにも生きるすべのないものは、死ぬより仕方がなかった。
物を味うことの好きな呉春に、たった一つ、死ぬる前に味っておかねばならぬものが残されていた。
彼は一度でいいから、心ゆくまでそれを味ってみたいと思いながら、今日まで遂にそれを果すことが出来なかったのだ。
それはこの世に二つとない美味いものだった。しかし、それを食べたものは、やがて死ななければならなかった。彼はその死が怖ろしさに、今日までそれを味うことを躊躇していた。
それを味うことが、やがて死であるとすれば、いま死のうとする彼にとって、そんな都合のよい食物はなかった。
その食物というのは、外でもない。河豚《ふぐ》であった。
呉春は死のうと思いきめたその日の夕方、めぼしいものを売った金で、酒と河豚とを買って来た。
「河豚よ。今お前を味うのは、やがてまた死を味うわけなのだ。お前たち二つのものにここで一緒に会えるのは、おれにとっても都合が悪くはない。」
呉春は透きとおるような魚の肉を見て、こんなことを考えていた。そしてしたたか酒を煽飲《あお》りながら、一箸ごとに噛みしめるようにしてそれを味った。
河豚は美味かった。多くの物の味を知りつくしていた呉春にも、こんな美味いものは初めてだった。彼は自分の最期に、この上もない物を味うことが出来るのを、いやそれよりも、そういう物を楽しんで味うことによって、安々と死をもたらすことが出来るのを心より喜んだ。
暫くすると、彼の感覚は倦怠を覚え出した。薄明りが眼の前にちらつくように思った。麻痺が来かかったのだ。
「河豚よ。お前は美味かった。すてきに美味かった。――死もきっとそうに違いなかろう……」
呉春はだるい心の底で夢のようにそんなことを思った……。
柔かい闇と、物の匂のような眠とが、そっと落ちかかって来た。彼はその後のことは覚えなかった。
3
翌朝、日が高く昇ってから、呉春は酒の酔と毒魚の麻痺とから、やっと醒めかかることが出来た。
彼は亡者のような恐怖に充ちた眼をしてそこらを見まわした。やがて顔は空洞《うつろ》のようになった。彼が取り散らした室の様子を見て、昨夜からの始末をやっと思い浮べることが出来たのは、それから大分時が経ってからのことだった。
まだ痛みのどこかに残っている頭をかかえたまま
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