の葉が少し描き添えてあるのみなのが、枯淡な老和尚の面目にふさわしかった。
「贅沢な老人だな。こんな採りたての、活《いき》のいい海老を食べるなんて。」
 私はその絵を見ているうちに、和尚の無一物の生活の豊かさが羨ましくなって、ついこんなことを思ったことがあった。
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   魚の憂鬱

 池のほとりに来た。蒼黒い水のおもてに、油のような春の光がきらきらと浮いている。ふと見ると、水底の藻の塊を押し分けて、大きな鯉がのっそりと出て来た。そして気が進まなさそうにそこらを見まわしているらしかったが、やがてまたのっそりと藻のなかに隠れてしまった。
 私はそれを見て、以前引きつけられた支那画の不思議な魚を思い出した。

 私は少年の頃、よく魚釣に出かけて往った。ある時、鮒を獲ろうとして、小舟に乗って、村はずれの池に浮んだことがあった。
 その日はどうしたわけか、釣れが悪かった。私はやけになって、すぐそこを游いでいる三寸ばかりの魚を目がけて鉤を下した。そして無理やりに餌を魚の鼻さきにこすりつけようとして、ふと物に驚いて、じっと水の深みを見おろした。
 今まで雲にかげっていた春の陽《ひ》は、急にぱっと明るくそこらに落ちかかって来た。ささ濁りに濁った水の中に、青い藻が長く浮いていて、その蔭から大きな鯉が、真っ黒な半身《はんみ》をのっそりと覗けているではないか。鋼鉄の兜でも被《かぶ》ったようなそのしかめっ面。人を恐れないその眼の光り。私は見ているうちに、何だか不気味になった。
「池のぬしかも知れない。」
 そう思うと、水草の蔭に、幾年と棲みながらえて、岸を外へ、広い天地に躍り出すこともできないで、絶えず身悶えして池を泳ぎまわり、絶えず限られた池を呪って来た老魚の生活の倦怠と憂鬱とが、私の小さな心を脅《おびや》かすように感じられて来たので、私は魚を獲ることなどはすっかり思いとまって、そこそこに舟を岸に漕ぎ戻したことがあった。
 河魚といえば、いずれも新鮮な生命にぴちぴちしていて、その姿をしなやかな、美しいものとのみ思って、友達のような親みをもって遊び馴れて来た私に、この古池の鯉は、彼等の持つ冷たい不気味さと憂鬱との半面を見せてくれるに十分であった。

 私はその後、どうしたわけか、魚の画が好きになって、出来る限りいろんな画家のものを貪り見たことがあった。画院の待詔で、游魚の図の
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