夫は善光の指ざす方角を見あげた。そしてはじけるように笑い出した。
「はははは。あれ知んなはらんのか。蜜柑やおまへんか。」
「蜜柑。」善光はいぶかしそうに農夫の顔を見た。「何ですか、蜜柑というのは。」
「蜜柑を知んなはらんのか。」農夫はおかしそうな表情をして善光を見かえした。旅の坊さんは牛のようなとぼけた顔をして立っていた。農夫は爪立ちをしながら手を伸ばして、枝から蜜柑の一つをもぎとった。「まあ、あがってごらん。おいしおまっせ。」
善光は熟しきった果物を手のひらに載せられたまま、それが火焔のかたまりででもあるかのように眼を見張った。
「食べられる、これが……」
善光のもじもじしている容子を見た農夫は、おかしさに溜らなさそうにまた笑い出した。
「坊さんなんて、ありがたいもんやな。蜜柑の食べ方一つ知んなはらん。どれ、わしが教えてあげまっさ。」
農夫は蜜柑の皮をむいて、あらためて中味を善光の手にかえした。
善光はそれを一口に頬張った。その口もとを見つめていた農夫はいった。
「なかなかおいしおまっしゃろ。」
善光はそれには答えないで、蝦蟇《がま》のような大きなおとがいを動かしながら、じっと後口《あとくち》を味っていたが、まだ何だか腑に落ちなさそうなところがあるらしく、ちょっと小首をかしげた。
「申しかねますが、今一ついただけないでしょうか。」
農夫は黙ってまた二つの蜜柑を枝からもぎとった。善光はそれを二つとも食べてしまって、初めて合点したようにいった。
「なるほど蜜柑というものはうまいものですな。」
旅の僧に初めて蜜柑を味わせたその喜びをもって、農夫がもとの樹かげに帰って往くと、善光は手を伸ばして道に落ちている蜜柑の皮を、残らず拾いとってふところに収めた。
「これ、これ。そんなもの拾うたかて、食べられやしまへんぜ。」
農夫の声が樹かげから聞えた。善光は声のする方にふりむいた。
「いや、持って帰って陳皮にするのです。」
善光め。何も知らない顔をしていて、実は蜜柑の皮を食うすべまで知っていたのだ。――禅というものは、いろんな場合に役に立つものである。
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柿
今日野道をぶらついていると、一軒の田舎家の裏口に出た。そこには柿の木が立っていて、枝には柿の実の幾つかが、午後三時頃の日光を受けて紅玉のように光っていた。柿の木の上には、雨あがりの青
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